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巻頭インタビュー

人と人、人と大地の関係性を紡いでスローフード、スローシティへ(ノンフィクション作家 島村奈津さん)

スローフードは1980年代にイタリアで始まった食を真ん中に関係性をつなぐ社会運動。日本にスローフードを紹介した島村菜津さんに多様性を大切にした食・まち・未来について聞きました。

島村 菜津 | SHIMAMURA Natsu
東京藝術大学・芸術学科卒。2000 年、『スローフードな人生!』(新潮社)でイタリア発のスローフード運動を日本に紹介しベストセラーとなる。近著に、『スローシティ 世界の均質化と闘うイタリアの小さな町』(光文社新書)、『シチリアの奇跡』(新潮新書)、『世界中から人が押し寄せる小さな村 新時代の観光の哲学』(光文社)など。

スローフードとは

──なぜスローフードに注目したのですか?
島村 大学進学のために上京して東京で一人暮らしを始めたとき、なんとなく何かにみんなが追い立てられているように感じました。満員電車はぎゅうぎゅう詰めで、とにかく忙しないんです。当時はチェーン店がどんどん増えていった頃で、どこに住んでも似たような景色になっていくことへの危機感のようなものもありました。なによりも、食事のときくらいのんびりしたらいいんじゃないかと。システムに飲み込まれていくような暮らしに違和感を抱いていたときに、知り合いの編集者からイタリアにスローフード運動というものがあることを聞いて、現場に行ってみようと思ったんです。

 1995年からイタリアで取材を始め、スローフード協会の副会長に最初に教えられたのは、「君と家族、君とふるさとや自然との間にも食や食卓があるだろう?その関係をスローという言葉を当てはめて考えてみようというのがスローフードなんだ」と。とても抽象的な話ですぐには理解できませんでしたが、結局、スローフード運動は食を真ん中に置いて関係性を考えていくことなんです。そこから5年くらいかけて生産者のところを訪ね歩くうちに、少しずつ腑に落ちていきました。

──2000年に『スローフードな人生!』を出版された頃は「反ファストフード」というような理解が多かったですね。
島村 マスメディアはわかりやすさを優先しますから。スローフードがファストフード撲滅運動のように捉えられたり、ファストではない食生活を「しなければならない」というような窮屈な枠に押し込めようとする向きもありました。でも、私がスローフードに惹かれたのは、多様性を大切にする、その懐の広さでした。
 
 イタリアのスローフード運動は、EU統合とともにアメリカ型の大量生産・大量消費のフードシステムが入ってくることへの危機感や、ワインへのエタノール混入という食品偽装事件へのアンチテーゼから生まれた運動ではありましたが、「多様性を守ることが大切なんだ」という価値観が大きな柱としてあります。ファストフードも選択肢のひとつとしてはあってもいいんだと。

──スローフード運動とはどんなものなのでしょうか。
島村 最初に取材したのは北イタリアの製粉所でした。ここでは在来種のトウモロコシを大切にしていて、「これでポレンタ(コーンミールのお粥)をつくると本当においしいからつくり続けてほしい」と、他のトウモロコシの2倍の価格を払って生産者を支えていました。最初はなぜそこまで在来種を守るのかわかりませんでした。時間をかけて取材を続けていくうちに、グローバル社会のなかで食習慣だけではなく、タネや菌のレベルまで世界中で均一化が進んでいることがわかってきました。私たちは急ぎ過ぎ、効率に走り過ぎたばかりに、気がつくとここまで来てしまっていた。やはり関係性をどう育てていくのかが大切だと思います。

 秋田県の男鹿半島ではハタハタという魚が激減し、海を守るために1992年から3年間の禁漁に踏み切ったのですが、そのために1000人くらいの漁師たちが百回以上も話し合ったそうです。海の資源管理のために、消費者の私たちに見えないところで漁師たちが日々取り組んでいたことが感動的で。他にも、在来種の野菜をつくる人を応援するシェフや学者たちがいたり、放牧で牛を育てたり、スローフード運動はイタリア発祥ですが、日本も負けてないなというのが実感です。

自分たちのことは自分たちで決める

──イタリアでは、なぜスローフードが社会的なうねりになったのでしょうか。
島村
 1999年のスローフードの大会で、「人口5万人以下の小さなまちは、大都市の真似をしなくてもいいし、大都市の便宜のためのまちにならなくてもいい。自律的なまちづくりをしよう」と、スローシティが各地に立ち上がっていきました。それぞれのまちの個性や多様性、何より自然とのつながりを大切にしてまちのあり方を考えるんです。イタリアではもともと「自分たちがなんとかしないと、なんともならない」という当事者意識が強いので、スローフードやスローシティの考え方がなじみやすかったとは思います。日本は治安もいいし、信頼できる行政ではあるのですが、「最後にはお上がなんとかしてくれるだろう」と精神的に依存し過ぎているのかなという気がします。どんなまちだったら自分たちが暮らしたいか、子育てをするのに楽しいか。地域のコミュニティに目を向ければ、きっとできることはたくさん見つかると思うんです。

ヴェスビオ山の裾野で収穫される希少な在来種のピエンノロトマトをを追熟させる農家

風上のくらしを大切にしよう

──地域のコミュニティがスローシティにつながるんですね。
島村
 新しい関係を紡ぐ場所づくりがカギになると思っています。スローシティを提唱した元グレーベインキャンティ市長たちの考え方に触発された肉屋は、空き倉庫を改修してキアンティワインが試飲できる地域のプレゼンテーションの場を作ったり、別の肉屋は子ども病院に寄付するためにセリを開いたりしていました。人が交流する場所をつくると、それまで出会うことのなかった新しいつながりが生まれて、信頼できる情報がやりとりされて化学変化も起こるし、エネルギーも出るし、楽しくなるんですよね。

 東北の民俗学者、結城登美雄さんが提唱した「地元学」は、「ないものねだり」から「あるもの探し」をモットーに地元の宝物探しをして地域の力を引き出していく手法です。私は、水俣でこれを実践した吉本哲郎さんという元水俣市職員から初めて手ほどきを受けました。水俣病という公害が引き裂いてしまった行政と患者、里山の農家と海の漁師たちが、彼らの凄まじい経験を聞いて、共有し、川はつながっているんだからと、海から山の水源までを一緒に歩いてみたりしたことから、環境都市への取り組みが始まっているんです。今の日本ですごく大事なのは、こういうことだと思います。

水俣の6割は中山間地。夏みかん畑から海を見下ろす。

──〝コモン〟の考え方にもつながりますね。
島村
 みんなポツンと一軒家で暮らしているわけではなくて、川上の暮らしがあるから川下も幸せに暮らせて、農村があるから都市でも暮らせるわけです。川上の人がヤケクソになってしまえば森は荒れて災害も大きくなります。里山や水源といった自然は誰の所有物でもなくて〝みんなのもの〟〝コモン〟として捉えることが大切です。そして、これからの暮らしを良くする農業を買い支えることが〝オーガニック〟。オーガニックは「農薬を使わないこと」と狭く捉えられがちですが、本当はこれも命の多様性を大切にする関係性の問題なんです。

能登で感じたこと

──能登半島地震の被災地にも通われているとのことですが。
島村
 能登を訪れると、瓦礫が2か月経ってもあまりにもそのままでショックを受けました。その後、輪島市と珠洲市はメディアに取り上げられることも増えたのでボランティアもある程度集まりましたが、周辺のまちの情報は伝わらず取り残されています。これから災害はいろんな地域で起こりますから、これは能登だけの問題ではありません。災害支援の地域格差が出ないシステムが必要です。

 イタリアでは1980年、南部のイルピニア地方を震源とし、約28万人の避難者を出した大きな地震がありました。その際に支援の遅れと調整機関の欠落などによって被害を深刻化させた反省から、小さな災害の場合は自治体中心、もう少し大きな災害の場合は州中心、州でも手に負えないような規模の災害は国がコーディネイトして災害支援にあたるというシステムが生まれて、とても早く支援が届くようになりました。ボランティアグループのスキルアップも、国が支援し多額の助成金が出ています。

 ここでカギになるのは自治力です。1976年イタリアのフリウリ地震の際には、住民が2か月後に1万人くらい集まって「復興助成金が正しく使われるように市民の監視力をつける」をテーマに集会が行われたそうです。壊れたまちをどのように復興したいのか、住民たちがしっかりとビジョンを持っていなければ、大手ゼネコンや政府の思うがままにされてしまいます。日本でも住民主体の復興を実現するためには平時からのこのような取り組みが必要だと感じます。

──能登はその後どんな様子ですか。
島村
 私が能登で応援しているのは、5人のシェフのグループです。輪島市のレストラン「ラトリエ・ドゥ・ノト」の池端シェフは、毎日1500食の炊き出しを続けてきたのですが、地震の後、やっと店を再建したところに秋の洪水です。自身もつらいはずなのですが、「心がボキッと折れた仲間が何人かいるから、心が明るくなるようなことをやりたい。今必要なのはエンターテイメントだ」と言って、能登の食材に惚れ込んだ東京のシェフたちと一緒にコース料理を地元の人に楽しんでもらう食事会を開きました。長期戦になるので、足りない物資を届けることはもちろん必要ですが、プラスして、文化とか子どもたちがワクワクするような仕掛けも大事だなと感じました。今回の地震で土地が隆起してできた海岸線には、新しい生態系が生まれ始めて、やっぱり能登は美しいんです。調査や社会的な旅も含めて受け入れて、お金を落としてもらう仕組みを考えていくのもいいと思いますね。

協同組合への期待

──オーガニック給食運動にも関わっておられますね。
島村
 先日、第2回 全国オーガニック給食フォーラムが開催され、全国から900人以上、オンラインで約4000人の参加がありました。オーガニック給食マップのサイトをお手伝いしているのですが、ここ数年でJAが方向転換し始めているのを感じています。北海道に次ぐ大生産地である茨城県のJA常陸が有機農業に舵を切ったことは画期的です。現地では、JAの方と有機農家、県の職員が、子どもたちの食を変えたいという同じ目標に向かっていい関係を紡いでいます。農業は5年先の見通しが立たないと投資ができません。行政が学校給食に地元産やオーガニックの食材を増やしていく方針を持って、価格ではなく信頼でつき合う相手として地元生産者とつながることができれば、担い手不足の地域の農業の新しい基盤をつくっていけると思います。

──オーガニックな関係性をつないでいきたいですね。
島村
 やっぱり「都市と農村」がカギだと思います。今すごく期待しているのは生協運動なんです。だって都市と農村をつなぐっていうことをずっと初期からやってきたところですから。生産者を支えることで、生産者も農薬を使わないものにシフトしてきたし、買ってもらえるからつくり続け、増やすことができます。

 私がスローフードで習った原点は、楽しい場所と時間づくりでした。真面目な勉強会も悪くはないですが、楽しいところにしか人は寄っていかないので、楽しくておいしいオーガニックな関係性をどう育てていくか。エネルギーが流れてお互いさまの関係ができるような、精査された確かな情報がきちんと伝わることも含めて、ワクワクする場所をたくさんつくっていけるといいなと思っています。

Table Vol.509(2025年1月)

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