2018年10月5日(金)、コープ自然派兵庫(ビジョン平和主催)は坪井兵輔さん(阪南大学准教授)を講師に講演会を開催、日本はどこに向かっているのか、とりわけ身近な街・神戸では何が起き、これからどこへ進もうとしているのかを話していただきました。
潜水艦を主体に武器輸出
講師の坪井兵輔さんは報道カメラマン、ベルリン支局特派員、報道番組やドキュメンタリーのディレクターとして20年近くMBS毎日放送で取材を続けてきました。映像’14「知られざる最前線〜神戸が担ってきた”日米同盟“ 〜」(2014年9月22日放送)、映像’15「よみがえる最前線〜神戸と核と日米同盟〜」(2015年7月26日放送)の制作にも取材ディレクターとして関わり、大きな反響を呼びました。
2018年9月17日、海上自衛隊の潜水艦「くろしお」が戦後初めて南シナ海で訓練を実施、8月31日には米原子力空母「ロナルド・レーガン」、9月7日にはフィリピン海軍と共同訓練をしています。2017年11月、2018年1月と7月には、核兵器を搭載できる米空軍B-52戦略爆撃機2機が日本の海上を通過して朝鮮半島に向かい、日本の航空自衛隊のF-15戦闘機6機が編隊訓練などを実施しました。
2014年に防衛装備移転三原則が策定され、日本は武器輸出を開始。2016年5月、オーストラリア海軍の潜水艦が初めて阪神基地隊に入港しました。神戸は日本で唯一、潜水艦を建造できる街、潜水艦建造には約1300社かかわり、潜水艦は武器輸出の最前線です。
軍需産業の拠点・神戸
「では、少し過去に遡ってみましょう」と坪井さんは神戸の軍需産業について話します。川崎重工は1869年に神戸港に兵庫製鉄所を設置し近代造船業を本格化、1906年には日本初の国産潜水艦を建造しました。三菱重工神戸造船所は1905年から長崎に次ぐ主力造船拠点として戦艦や潜水艦を建造、1924年に大阪金属工場として創業したダイキンは主に内燃機関、精密機械、航空機部品を製造、海軍の潜水艦の空調設備も手がけ、南太平洋での長期作戦行動を可能にしました。新明和(旧・川西航空機)は宝塚、西宮、芦屋、神戸で水陸両用機を製造、海軍の切り札「紫電改」を開発します。神戸製鋼は1915年、海軍からの要請で魚雷発射管用空気圧縮機を開発、武器弾薬を製造していました。
第二次世界大戦中、摩耶山頂から六甲山頂は軍用道路で六甲山は軍事機密の拠点でした。特攻隊にかかわることでは、1943年、川崎車両が明石舟艇工場で体当たり特攻艇を製造。川西航空機姫路製作所鶉野工場では「紫電改」「紫電」など500機余りの戦闘機を組み立て全国から集められた17歳から25歳までの若者320名により神風特攻隊「白鷺隊」を編成、鹿児島・串良基地から出撃し63名が落命しました。加古川飛行場は鹿児島・知覧への中継地として特攻隊が給油や機体整備を行いました。近くの旅館には特攻隊員の血書が残されています。また、志願者が少なくなると、加古川住民から特攻隊員を募り、その際の選択肢は「熱望」「志望」「希望」だったということです。神戸は船乗りの街、商船学校で船員を養成し、戦地へ徴用されて6万人近い民間船員(半分以上が若者)が落命。甲子園球場は長野県などから召集された船員の養成場となっていました。そんな神戸を米軍は激しく爆撃。「飢餓作戦」では神戸沖に機雷を投下、阪神間の物流の7割が遮断されました。
戦時下の神戸と市民生活
国際都市・神戸にはさまざま国の人たちが暮らしていました。しかし、戦争中は軍事機密に覆われ、徹底的に監視されました。1944年、華僑13名がスパイ容疑で逮捕され、6名が拷問により拘留中または釈放後に死亡。ずっと沈黙していた遺族を取材した坪井さんはその酷さに大きな衝撃を受けたということです。
1925年、治安維持法制定、1930年、大日本連合婦人会結成、1932年、大日本国防婦人会結成、1938年、国家総動員法制定、1940年大政翼賛会結成、1941年、国民徴用令、治安維持法改正など戦争への同調意識を強制、町内会や隣り組、勤労奉仕、金属供出、国旗掲揚、ラジオ体操などにより相互監視体制が強化されました。
また、地方自治体に徴兵ノルマが課せられるようになり、神戸市兵事係では軍提出用名簿を作成。1941年、すべての学校は国民学校となり、「挙国一致尽忠報国」精神のもと厳しい教育が行われました。そして、兵役志願を要請し、在校生や卒業生の成績・体力優秀性などを記した名簿を市町村に提出しました。戦争が激化するにつれて志願兵の年齢は引き下げられ(14歳〜)、市町村長や兵事係、教員が戸別訪問して説得。満蒙開拓青少年義勇軍(16歳〜19歳)への動員は都道府県のノルマとなり、兵庫県は5000人、そのうち神戸市から140人が満州国に向かいました。動員の成果は治安維持法で逮捕された教師たちが職場復帰できるかどうかの踏み絵にされたということです。
米軍に支配された神戸
戦後、米軍は神戸港を接収。朝鮮戦争やベトナム戦争では日本は米軍海兵隊の出撃拠点となり、多くの米軍艦船が神戸港から戦地へ向かいました。その際、米軍輸送は民間人が行い、その数は約8000人。他国の戦争に協力するのは憲法違反なので極秘で行われたということです。1954年と1964年には神戸港に核兵器が持ち込まれています。六甲最高峰には巨大パラボラレーダー基地がつくられ(1993年まで)、自衛隊レーダー施設も併設、横田・沖縄嘉手納・韓国米軍基地に情報ネットワーク網がつくられました。朝鮮戦争のさなかに中国の参戦を恐れ核兵器の使用を検討したのは事実、間接的にアメリカの核戦略の一端を担っていたことになります。
「非核神戸方式」を採択
アメリカは核兵器を開発しましたが、ソ連が核実験に成功し、中国も開発に着手したことで危機感を抱き、さらに核戦略を批判する国際世論の高まりで1954年にアイゼンハワーが核の「平和利用」を提唱、1955年に原子力船「ノーチラス」が試運転しました。この原子炉を陸に上げたものが商業用原子炉です。
アメリカの要請で日本でも原子力船「むつ」を建造、原子炉は神戸で建造されました。ところが1972年に「むつ」は事故を起こし、その修理をどこも引き受けず、神戸でということになりました。そのため、1975年3月18日、神戸市議会は「非核神戸方式」を採択。「非核神戸方式」とは、港湾管理者である神戸市が神戸港に入港する外国艦船に核を積んでいないとの証明書の提出を義務づける手続きです。以来、アメリカ艦船は一度も神戸港に入港していません。
福島原発事故後、世界は原発廃止へと向かっていますが、日本は未だ原発を輸出の大きな柱に位置付けています。そして、日本の原発の43%が三菱重工で製造されているということです。
神戸はどこへ向かうのか
昨年、日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)が改定され、米軍の後方支援が大幅に拡大しました。また、集団的自衛権行使を可能とする安保関連法が強行採決され、自衛隊の活動が一気に世界中に広かる可能性か出てきました。一方で自衛隊員不足により2年前から民間人が活用されるようになり、初めての活用は熊本地震時で神戸港から出港しました。
そして今、「非核神戸方式」が存続の危機を迎えています。神戸は日本で唯一、潜水艦を建造できる街、海上自衛隊の阪神基地隊もあり、原発建造の拠点でもあります。神戸は物流インフラを整備しながら港を拡張してきましたが、阪神・淡路大震災以来、経済不振に苦しみ、病院や研究機関が一体となり、最先端医療を活かした医療産業都市構想を推進しています。この構想にアメリカがかかわっているとの報告書があり、アメリカ駐日大使や領事がアメリカ企業20社の誘致をちらつかせながら、「非核神戸方式」撤廃を求める発言をし続けています。また、神戸商工会議所幹部からも「非核神戸方式」見直し発言もあり、神戸は今、大きな岐路に
立たされています。
Table Vol.379(2018年11月)