原発建設を止めた町、三重県南島町をご存知ですか。2024年9月14日、コープ自然派奈良(理事会)では、カミシバラーミキさんを招いて紙芝居「ASHIHAMABEACH」を上演。37年の長い海の民の物語をお伝えします。
突然の原発建設計画
紀伊半島の東側に位置する三重県、その太平洋に面した美しい海岸・芦浜に、1963年突如として原発建設計画が持ち上がりました。まさに高度経済成長の時代。翌年には東京オリンピックと新幹線の開通を控え、所得倍増計画、テレビ、マイカー、クーラーと、人々の生活はどんどん豊かになっていました。その陰で水俣病や四日市喘息などの公害病が問題化し、安保闘争や学生運動も激化。東西冷戦の核ミサイル開発競争の裏で、原子力の平和利用という名のもと、世界中で原発がどんどんつくられていた中でのできごとでした。

血をもって阻止する
芦浜は、南島町(現南伊勢町)と紀勢町(現大紀町)にまたがる海岸です。南島町の漁師たちは原発について一から勉強し、「熊野の海に原発は必要ない。血をもって阻止する」と結論づけます。そして南島町の7つの漁業協同組合(漁協)は「原発反対対策協議会」を設立、原発反対を決議しました。しかし、お隣の紀勢町は原発推進の考え。昔から仲が良かった南島町古和浦地区と紀勢町錦地区という芦浜に接するふたつの地区は、原発反対と賛成に真っ二つに分断されてしまいました。
1966年、25名もの逮捕者を出した「長島事件」が起こります。国会議員による芦浜現地視察を阻止しようと約600隻の漁船が長島港に集結し、視察中止に追い込んだのです。この騒動を受け、田中三重県知事は芦浜原発の終結を宣言。4年間に及ぶ激しい闘いが終わり、誰もがほっとしました。しかし、県と電力会社は次の一手を進めていったのです。
第二の戦いと分断
十数年の時を経て1984年、再び芦浜原発推進が再燃します。田川三重県知事が原発関連の予算3000万円を計上したのです。この頃から南島町、とくに古和浦では反対派住民への嫌がらせが激化します。無言電話、注文した覚えのない商品の送りつけ、差出人のない脅迫の手紙…人間関係をズタズタに壊され、いつしか古和浦漁協でも推進派が多数を占めるようになっていきました。
このような流れの中で、古和浦漁協は1994年、原発反対決議を撤回。続いて海洋調査受け入れの賛否を決める臨時総会が開かれることになりました。「この総会で決まったらもう終わりだ」と、約2000人の町民が古和浦漁協前に座り込みます。結果、ひとりの逮捕者を出すこともなく総会は流会となりました。
原発反対81万筆署名
南島町長に原発反対派の稲葉町長が当選すると、町役場に原発反対闘争本部を設置。電力会社との間で、町長と各漁協の同意があるまでは海洋調査を実施しない、立地活動は1年凍結するといった内容の覚書も交わしました。さらに、町民の2 /3 以上の賛成がないと原発は建設できないという条例までつくったのです。
町民たちは最後の闘いとして、三重県全体を巻き込んだ署名運動に打って出ます。「南島の声で動かぬなら、県民の声を示そうではないか」。署名は、三重県民150万人の半分以上にあたる81万筆を集めるという歴史的な成果を収めました。そしてついに2000年2月22日、北川三重県知事は芦浜原発の白紙撤回を宣言。南島町民の輝かしい勝利でした。
「全国ではいまもいくつもの原発が稼働しています。原発はもう止められないのでしょうか。いいえ、止められます。それを南島町の人たちが証明してくれました」とカミシバラーミキさんは呼びかけます。「どうか行動してください。デモに繰り出しましょう。署名をしましょう。意思表示をしましょう。待ったをかけましょう。声を上げていきましょう。選挙に投票に行きましょう。原発は、愛で止まります」。

Table Vol.511(2025年3月)