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くらしと社会

女性パワー全開!!その第一歩

コープ自然派事業連合の前身は関西・四国の共同購入会です。共同購入会のひとつ「よつ葉牛乳関西共同購入会」のパワフルなストーリーを山下千恵子さんに聴きました。聴き手はコープ自然派事業連合元理事長・大川智恵子さんです。

よつ葉牛乳との出会い

大川 山下さんは「よつ葉牛乳関西共同購入会」を設立されたお一人ですが、なぜ、「よつ葉牛乳」だったのですか。

山下 ある日、北海道から1人の男性が車でよつ葉牛乳を売りに来ました。1975年のことです。飲むととてもおいしくて配られたチラシには、「おいしい牛乳は農業問題とつながっていて、消費者が国に任せたままでいると農業はどんどん荒廃していく」と書かれていました。大量生産・消費の生活を続けていると地球は危ないという本を読んだところだったのでショックでした。

大川 当時、市販牛乳は水っぽくておいしいとは言えなかったですよね。

山下 このおいしい牛乳を飲むには共同購入しかない、関東ではすでに共同購入グループがたくさんつくられていると聞きました。そこで、近所の人たちとグループを結成、この牛乳を飲み続けることで暮らしを見直したいと思いました。

大川 1974年10月14日から1975年6月30日まで、朝日新聞に有吉佐和子さんの『複合汚染』が連載され、大きな反響を呼びました。連載終了前の1975年4月に単行本上巻が出版され、7月に出版された下巻と併せてベストセラーとなりました。また、1962年に出版されたレイチェル・カーソン著『沈黙の春』は農薬の危険性を訴えました。

ピンチに立ち向かう

山下 共同購入が始まり、第1回運営委員会・準備委員会が開催されました。その会議である委員が1枚のチラシを持ってきました。当時は安全食糧開発本部という名称で牛乳販売店の経営者が中心になって運営していたのですが、消費者運動と称して牛乳販売店がもうけようとしていることが明らかになりました。「会員名簿がほしい」と要求すると「出せない」と言われ、事務所に押しかけて名簿を手に入れました。そうなると自分たちで配送しなければならなくなり、名簿を頼りに配送コースをつくりました。その時にはすでにたくさんの共同購入グループができていました。

大川 大変な事態を乗り越えられたのですね。

山下 十数名の主婦たちの身の丈を超えていましたが、良いものを手に入れたいと思えば自分たちが行動するしかないことを実感しました。保冷車を購入する際は夫名義で何百万円ものローンを組み、事務所は私名義で契約し、本当に大丈夫だろうかと背筋が凍るような思いでした。

2つの大きな柱

大川 1976年、「よつ葉牛乳関西共同購入会」が480グループで発足しました。

山下 会の大きな柱は2つありました。1つは「効率至上主義の工業化社会ではなく、命や自然を大切にする暮らしをつくろう」。もう1つは、「人と人とのつながりをつくろう」です。そして、自然循環を大切にした暮らしを取り戻すには、公害や原発をなくさなければならないと「水俣の甘夏」や「西海漁協の魚」などを産直するようになります。

大川 農協など大きな組織に頼らず、自分たちで販売しようと立ち上がった若手農家の集まり・「自由個性集団あくと」(長野県)のりんごは牛乳の次に取り扱いましたね。

山下 事務局メンバーは情報提供してくれましたが、会員の自主運営を目ざし、すべて運営委員会で決定しました。運営委員会には各ブロック代表者が参加し、朝の10時から夕方まで会議。食事する時間も忘れて職員に「食事動議」を出されたこともあります(笑)。1978年には会則をつくり、ブロック活動を開始、産地訪問も行いました。

大川 私は共同購入会設立直後に事務職員として採用されました。みなさん本当によく議論されていましたね。

山下 その後、「よつ葉牛乳関西共同購入会」をともに設立した団体と方針や運営をめぐって激しく対立し、袂を分かつことになりましたが、女性たちは本当に頑張りました。

反LL牛乳運動を展開

山下 1979年、よつ葉牛乳を製造する北農乳(株)が常温で長期保存が可能なLL(ロングライフ)牛乳を製造するということで計画撤回の署名活動を展開、全体で20万1509筆が集まりました。そして、LL牛乳反対運動を通して北海道の「農村を考える会」と出会いました。「農村を考える会」からは穫れ過ぎたかぼちゃを大量に引き取り、運営委員は配送車に同乗して会員宅に20㎏単位のかぼちゃを売りに回りました。

大川 「大きなかぼちゃがベランダでゴロゴロしていて大変だった」と会員さんからよく聞きました(笑)。淡路島の野菜も産直するようになり、週末には草取り、夜は夜盗虫という害虫取りによく出かけました。みなさんとてもパワフルでした。どうしてこんなに活動できたのでしょうね。

山下 これまで何も考えずに暮らしていたのがふとしたきっかけでどういうことなの?と考えるようになり、なるほどこういうことだったのかとつながっていきました。短期間にたくさんの知識を得ましたね。このままでは子どもたちに申し訳ないという思いもありました。

大川 いろんなことを一気に知った衝撃ですね。マスコミで得てきた知識は何だったのかという思いもありましたね。

山下 私たちは高度成長の波に乗っかっていましたが、このままでは危ないと思いました。

反原発・反公害運動

山下 西海漁協(現・石川県漁協西海支所)の川辺さんたちが能登半島への原発誘致に反対していることを聞き、応援するために鮮魚の産直を始めました。現地の漁協に出向き、自分たちで箱詰めして車で運び、各グループの拠点に魚を届けました。

大川 私もグループで大量の魚を引き取りました。仕事から帰ってカワハギ100匹の皮を剥がしたり、イワシ150匹をさばくのはまさに苦行でした(笑)。

山下 1986年にチェルノブイリ原発事故が起き、幌延核処理施設計画に反対するため北海道訪問キャラバンも実施しました。そして、「海と暮らしを考える部会」「放射能汚染から食べ物を守る部会」発足。1988年には「暮らしのなかから、反原発を!」とのスローガンを掲げて伊方原発(愛媛県)出力調整実験への反対行動に参加しました。

大川 幼児だった子どもたちと参加しました。水俣ひとり芝居公演も何度も企画しましたね。「チェルノブイリから3年、関西、春の陣」「水俣、女の平和」などのイベントも好評でした。

共同購入会から生協へ

大川 その後、共同購入会は経営困難ということもあり、生協設立への道を歩みました。職員や生産者への責任があるので、経営が苦しくなったからとやめるわけにはいきません。

山下 良い選択だったと言えるのではないでしょうか。ただ、運営部分を消費者が担わなくなって楽になった反面、経営はすべて事務局にお任せになりましたね。

大川 現在のコープ自然派についてどのように感じていますか。

山下 私は1986年に運営委員をやめ、それからはカタログを見て注文するだけです。厳しい安全基準で商品を選んでいるという安心感があり、とても信頼しています。一方で、規模が大きくなるにつれて資本の論理で動いていく危惧があります。設立当初、商社化したマンモス生協とは異なる存在価値を求めていました。組合員拡大は大事ですが、何のための拡大なのかが鮮明になるといいですね。

大川 斎藤幸平さんの著書『人新世の「資本論」』では3.5%の人が変わると社会は変えられると書いていますね。コープ自然派はまだまだ3.5%に達していません。

山下 安全な食べものを選ぶことにある種の後ろめたさがあります。なぜなら食べられない人もいるからです。コロナ禍でも犠牲になるのは貧困世帯です。

大川 生協は弱者の立場に立ち、地域に貢献するという役割があります。今、「学校給食をオーガニックに」という動きがコープ自然派でも活発です。貧困世帯の子どもたちにとって、せめて給食だけは安全なものをと願っています。

山下 安全な食材を選ぶ人が増えると企業も変わり、社会も変わります。最近、スーパーでも有機コーナーが増えましたね。

大川 共同購入会が大切にしていたつながりについてはどうでしょうか。

山下 仕事を持っていると共同購入は難しいです。ただ、宅配だと地域でどういう人が組合員なのかわからないのが残念です。テーマをもったつながりをつくる下支えとしての生協の役割が問われますね。今後とも大いに期待しています。

※参照・引用よつ葉牛乳関西共同購入会編「1本の牛乳から」、再録 共同購入会15周年記念イベント「出会いに心はずんで」。

女性たちの活躍の歴史を振り返る山下千恵子さん(左)と大川智恵子さん(右)。

Table Vol.490(2023年6月)

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