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巻頭インタビュー

ケアを中心とする民主主義へ(政治学者 岡野八代さん)

 ケアとは、他者の手を借りなければ生存に必要な活動が困難な人たちのために、必要なものを満たす活動や営み、実践です。
 ケアは誰もが必要とし、ケアを受けない人はいないにもかかわらず、長い歴史の中でその価値が軽視、あるいは無視され続けたのはなぜなのか、そして、ケアを中心とする民主主義を再編するために私たちは何をしたらよいのかなどについて、岡野八代さん(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)に聴きました。

岡野 八代| OKANO Yayo
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。専攻は政治思想、フェミニズム理論。主な著書に『シティズンシップの政治学-国民・国家主義批判 増補版』(白澤社)、『フェミニズムの政治学-ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房)、『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店)など。

古くから女性に押し付けられてきたケア

──岡野さんが「ケア」に注目したのはどのようなきっかけですか。
岡野 大学時代からずっと政治思想を研究してきましたが、もともとフェミニズムに関心があり、カナダへの留学をきっかけに政治学におけるフェミニズムについて研究を始めました。ケアの倫理という研究領域に最初に出会ったのは、同時多発テロの余波のなか、アフガニスタンやイラクと戦争するアメリカ合衆国ニューヨーク市に在外研究のため滞在していた2002年、故ドゥルシラ・コーネルが出版したばかりの『女たちの絆』を読んだことがきっかけでした。哲学者・コーネルが憤慨していたように、古代ギリシャに始まる西洋政治思想において、権力者たちは身体性を侮蔑・嫌悪し、生殖能力を持つゆえに女性たちは奴隷のように働かせられ、「女は理性がない」「動物たちに近い」「そもそも女は動物に近いから子育てするもの」だと、少なくとも20世紀に入るまで女性は侮蔑的に扱われました。

──男性たちは、誰もが母親から生まれてきたことを認めたくなかったのでしょうか。
岡野 権力者の男たちにとって蔑すんでいる女性から生まれることは衝撃的な事実です。そこには女性に対する根深い憎しみがあるのかもしれません。男たちは誕生についてほとんど議論せず、古代の哲学者たちは生まれてきたら早く死んだ方がいい、あるいは近代になれば、人間は動物と違って死ぬことを選べるから自由だなどと死について集中して考えました。

 そして、子育てについては一人前の男がするものではないという考え方が今もあります。また、高齢者介護や医療など、人間にとつてもっとも大切な「生きること」に関するさまざまな労働はずっと貶められてきました。政治思想史を振り返ると、男性は自分たちは偉くて、こまごました子どもの面倒などみないというものでした。

 また、ケア労働の1つの特徴として他人に振り回されることがあります。一人前の男にとって他人に振り回されるのは不本意で、自分が立てた目標に向かって一直線にすすむのが一人前の男であることの証だと考えました。他人の言いなりになることは彼らには許しがたい行為だったのです

──ケアはフェミニズムと深くかかわっているのですね。
岡野 1970年代、女性たちは直面していた社会的な抑圧や差別について考え、ケアがジェンダーと深くかかわることがわかってきました。女性たちが受ける抑圧の原因の1つとして目を向けたのは、母親たちが担うことが当然とされていた家事・育児です。女性の社会的地位の低さや生きる選択肢が制約されている原因は、家庭内において女性たちが担う役割にあることを明らかにしたのです。「誰もみんなお母さんの子ども」であり、人間は例外なくケアを受けます。にもかかわらず、なぜ政治はケアを他人任せにてきたのか。ケアの倫理に依拠するフェミニストたちが男性たちの議論から聴き取ったのは、依存に対する不安や恐怖心に根ざした侮蔑でした。ケアの倫理は、女性たちが自らの言葉と経験で生み出したフェミニズム思想に他ならないというように理解できるまでに、私は20年の歳月を要しました。

 アメリカでは黒人奴隷に子育てをさせてきました。白人家族は黒人奴隷たちにトイレも一緒に使わせなかったのに、奴隷の女性たちに子どもたちの世話をさせていました。そして、子どもたちは、お母さんのような存在の奴隷をいつのまにか見下すようになります。すごい歪みだと思いますが、一般的にも自分がもっとも愛している母親への蔑視・嫌悪が草の根まで染み込んでいるのです。これは日本でも言えることで、自分がもっとも愛している母親が家の中で馬鹿にされ、社会でも馬鹿にされているという思いが「母親嫌悪」につながったのです。1970年代から80年代のフェミニストが明らかにしたことです。

女性にとって子育てはペナルティー

──女性にとって子育ては人生の大きな転換点と言えます。
岡野 女性にとって子育てはまさに「鬼門」です。2023年にノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディンは、アメリカ1世紀にわたる女性の収入と労働市場への参加についてデータを収集し、女性は世界の労働市場において圧倒的に存在感が希薄で、働いても男性より収入が少ないことを示しました。そして、所得や雇用率における男女差が時代とともにどのように変化してきたのか、また、なぜ変化してきたのかを明らかにしました。

 かつては子育てが終われば働き始めていた女性たちは、今では子育ても仕事も同時に行います。でも、どんなに政策が変わっても女性は子育てと仕事で悩まされています。そのやりくりはそれぞれ違いますが、みんな悩まされています。そして今、一番大変なのは、女性が子育てもキャリアも担っているから賃金が低いこと。長い時間働ける仕事は単価が高いことが多く、短い時間しか働けない仕事は単価が低いのが現状です。彼女はそんな調査も行っています。

 デンマークは世界的にジェンダーギャップが小さい国で、男女平等政策では世界でほぼトップクラスですが、賃金格差ではアメリカと変わらないということが問題です。政策上のジェンダーギャップを克服しても、完全に平等に賃金格差を縮めることができません。2000年代頃、欧米で盛んに研究されるようになった「母親ペナルティー」「母親罰」とは、「子どもを持つことが何かの罰(ペナルティー)のようだ」という育児世代の気持ちを表現した言葉で、「子育て罰」「チャイルドペナルティー」とも言います。 出産や子どもがいることによって、キャリアの中断や昇格昇進の遅れ、賃金格差、職場での居場所のなさなど、母親、あるいは母親業を担う者が社会的な不利益を被る現象を指す言葉です。社会がなぜか子育てする人に罰を与えているということですね。

──儲からないからケアには公的なお金をかけないというのですね。
岡野
 ヨーロッパでは3歳から義務教育です。国が公共財として育てます。一方、アメリカでは日本よりさらに教員不足で、軍人が教えていることもあります。週4日の学校もあり、日本もそちらに向かっています。少子化で今なら少人数で授業する良いチャンスなのに統廃合したりしています。ケアは儲からないから民間委託し、儲からないものから儲けようとし質を低下させます。ケアを受ける人は働けないからケアを受ける、だから受けたサービスの代金を払うことができない。ケアで儲けるなんてできません。だから社会でどうやってその責任を担うかを語り合うのが民主主義だと私たちは言っています。このままだと日本は沈没してしまいます。政府は2027年までに軍事費をGDPの2%にすると言っていますが、その代わりに予算を削るところは決まっています、子どもと高齢者、つまり弱者への予算です。

 国会ではケアに関わること、育児や介護については議論されないですが、それがおかしいのです。誰がケアするかは政治が行われる以前から誰かがどこかで決めています。権力者が勝手に決めているのです。障害を持っていたり、貧困状態で育てている人たちもたくさんいます。「グローバルな人材を養成しろ」と政府は大学に言ってきますが、子育てが行き届いていない人たちがたくさんいるのにどうすれば良いというのでしょうか。

 ヨーロッパでは優秀な人材を育てるには3歳までの養育で決まることが多くの研究で明らかになっているので、どうやって保育するかを必死に考えています。どんな親から生まれても平等に育つような社会をつくることは基本だと思います。でも、日本政府は子育てや教育には使わず、アメリカの言いなりになって軍備をどんどん増やすことを閣議決定しています。

私たちに何ができるか

──コロナ禍ではケア労働の不足が顕在化しました。
岡野 
コロナ禍でようやくケア労働の不足が明るみになりました。しかし、介護問題などは今もまったく改善されないどころか、改悪されようとしています。ヨーロッパの国々だったら、若者たちが自分たちの未来の問題だと怒るでしょう。でも、日本では感覚が鈍いようです。

 政治への関心は人と出会って初めて生まれます。かつて日本では製造業が中心で労働者はみんなで昼食を一緒に食べていました。みんなが集まれば同じ環境で「苦しいね」などと語り合うことにとなかなか声を上げられません。今のようにコミュニティが築かれず完全に家族に閉じ込められていると、「個人的なことは政治的である」とはなかなか考えられません。

──このままだと女性たちはますます苦しくなりますね。
岡野
 私たちの世代は退職すれば野垂れ死にするしかないかもしれません。昨年亡くなった母はずっと働いていて年金がちゃんと受給され、手厚い介護を受けることができました。だから、私は母には1日も長く生きてほしいと願っていました。長生きして喜べない社会がどんなにおかしな社会か、自分のこととして考えればわかるはずです。

 ケア労働が不足すれば社会が動かなくなることがコロナ禍でよくわかったのですから、少なくともそういうことが理解できている人を政治家にしていくことが私たちにできることではないでしょうか。もう一つは、ケア労働に携わっている人たちが声を上げることです。「こんなことやってられない」と。日本では、男性が育児休暇をとるのは3%程度で、しかも、あまりにも短期間です。フィンランドのように男性が1年間くらい育児休暇をとるような制度をつくるべきです。

 フェミニズム政治理論を研究するジョアン・C・トロントは、ケアを排除してきた民主主義から、ケアを中心とする民主主義へと転換すべきだと訴えます。ケアを民主主義の中心に、そして、政治の根本にかかわる問題としていかに組みこんでいくか、だと。

──日本の場合、男性の就労時間が長すぎるという問題もあります。
岡野
 日本の場合、女性の育児・家事時間が際立って長く、男性の育児時間が極めて短いことが指摘されています。男性の就労時間の長さは、首都圏をはじめとした通勤時間の長さも加わって、日本社会の顕著な特徴として知られてきました。内閣府男女共同参画局が毎年発表する「男女共同参画白書」2020年版では、労働時間に関する国際比較が示され、日本では以前にも増して女性たちが有償労働に就くようになり、男女ともに有償労働時間が長いです。男性の有償労働時間が極端に長い反面、女性に無償労働が極端に偏っています。そして、「男女ともに有償・無償を合わせた総労働時間が長く、時間的にはすでに限界まで労働している」と指摘されています。

 日本では市民の政治意識の低さが唱えられて久しいですが、それは意識の問題ではなく、私たちにはそもそもそのような活動の時間が与えられていないのです。男性の労働時間が長いために、女性はその分、家事・育児時間が長く、労働時間に生活時間のほとんどすべてを奪われている男性は、自身のケアさえおぼつかない状況です。そして、政治以外のケアを誰かに任せておける特権的な者たちだけが、政治を動かすという社会ができ上がってしまいました。時間を奪われた私たちは、こうしたケアのあまりに偏った配分を不正義としてとらえ直し、今こそ、ケアを求める声を上げるべきでしょう。

 かつて専業主婦が多かった頃は消費者運動でも女性たちが活躍していましたが、今は女性たちは非正規であっても働いているので、自宅と職場の往復で1日は終わります。私は8時間労働は長すぎると思っています。そんなに長く働かなくていいのではないでしょうか。フィンランドやノルウェーでは労働時間は短く、福祉は手厚いので1時間当たりの生産力も大きいということです。

 そして、お母さんは週休2日であるべきだと思います。365日お母さんだとしんどすぎます。その分を社会が担い、雇用を創出すれば人が新たに育ちます。日本はここ30年、経済的に停滞しているのは、人にお金をかけていないからです。

──最後に、生協活動についてひとことお願いします。
岡野
 1970年代に女性たちが担ってきた消費者活動などは政治的にも大きな意味がありました。でも、女性たちが働き始めると忙しくなり、消費者活動も政治活動もできにくくなります。70年代の人たちが担ってきた運動を引き継いでいく人がいないことが課題です。経済的に氷河期なのでさらに働かなければならなくなっています。

 今、かつてのモデルをつくり直さなければならないときに来ているのかもしれませんね。こんな苦しい生活の中で違う生活をしていこうという若者たちが出てくるかも知れません。かつてとは違う形の運動をつくらなければならないのではないでしょうか。

(取材・まとめ 高橋もと子)

【引用書籍】
岡野八代(2024).ケアの倫理──フェミニズムの政治思想』.岩波新書
【参考書籍・文献】
ジョアン・C・トロント/岡野八代(2020).『ケアするのは誰か?新しい民主主義のかたちへ』.白澤社
岡野八代(2022).「ケア/ジェンダー/民主主義」『世界』952号(1月号)

Table Vol.510(2025年2月)

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