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生産者訪問・商品学習会

コープ自然派兵庫・「水俣」研修報告 PART2

PART1>>に続き、コープ自然派兵庫・「水俣」研修報告をお届けします。
今回の理事研修では水俣市を中心に鹿児島県も訪ね、戦争や原発問題について考えました。理事のみなさんのレポートの一部を紹介します。

茂道漁港

 茂道漁港は水俣市から約6㎞ほど南に位置する漁港です。ここは水俣病患者が多発したところで、1950年に猫はてんかんで全滅、ねずみが急増し、数年後には魚介類や家畜、猫への異変を多くの住民が認識しました。流産・死産、原因不明で亡くなる人が増加し、患者が出た家庭は差別を恐れ隠れて暮らしました。水俣病発生初期、茂道では9人中4人が胎児性水俣病患者でした。水俣病被害者互助会会長・佐藤英樹さんの父親は漁業をやめてチッソ(株)に入社、その後、国有林の払い下げがきっかけで山を切り開いた40haでみかんづくりを始めました。両親と祖母は患者認定されますが、幼い頃から症状がある佐藤さんは未認定。認定されていない同地区の同世代の人たちと水俣病認定義務付けの訴訟を起こし、15年にわたる裁判は今も続いています。

チッソ(JNC)株

 肥薩おれんじ鉄道・水俣駅を降りると眼前にはJNC(株)水俣工場正面玄関、「チッソ城下町」と称される水俣市の姿が垣間見えます。チッソ(株)は1906年設立。2011年、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づきJNC(株)が設立され、事業を引き継いでいます。1932年から1968年までメチル水銀が含まれる廃水を流し続け、1956年には汚染の公式確認がされているにも関わらず、12年間も対策を取らず排水してきました。それどころか対策したと偽り、健康には問題ないと繰り返すことで、魚を主食とする多くの市民が汚染された魚を食べ続けて被害はより拡大、胎児は胎盤を通して発病しました。

 社内には会社のあゆみが展示されていますが、水俣病については一切書かれていません。第一労働組合は水俣病患者に寄り添う労働組合、第二労働組合は会社側の労働組合。汚染された魚を捕れなくなった漁業者もチッソで働くなど市民の分断も深刻で、病気の苦しみから差別の苦しみ、住民同士の分断とさまざまな苦しみが被害者を傷つけています。

知覧特攻平和会館

 鹿児島県の知覧は第二次大戦末期の1945年3月に特攻基地となりました。今回の理事研修では「知覧特攻平和会館」を訪ねました。1942年6月、ミッドウェー海戦で空母4隻撃沈するなど戦況悪化。開戦から3年後の1945年、最前線である沖縄を守るための最終手段として組織的な特攻作戦が開始されます。特攻とは重さ250㎏の爆弾を装着した戦闘機で体当たりする作戦。沖縄への特攻戦死者1036名(うち439名が知覧基地より出撃/全特攻戦死者4000人)とされています。

 平和会館には、約250点の遺書・手紙、遺詠、絶筆や遺筆が展示され、特攻隊員が過ごした兵舎も再現されています。「戦争の客観的事実を知り、特攻作戦が実行されてしまった背景に注目したい。組合員活動などを通して地域でできることをすすめたい」と理事メンバーは確認します。

特攻隊に関する資料が展示されている知覧特攻平和会館。

川内原子力発電所

 鹿児島空港から車で約1時間半のところにある川内原子力発電所は、九州電力の加圧水型原子力発電所で、1984年に1号機、1985年に2号機が営業運転を開始しました。2013年9月、国内すべての原発が停止後、2015年8月11日に川内原発が最初に再稼働しました。

 「エコネットみなまた」・永野隆文さんに反原発の視点から川内原発を案内していただきました。展示館の館内は実物大の原子炉模型が展示されているなど楽しく見学できるよう工夫されていますが、展示も案内パンフレットも原発は安心安全で大切な発電であると書かれています。

 永野さんのお話によると、川内原発から40㎞圏内の水俣でも反原発運動は活発で、ゲート前での抗議活動も行われていますが、現在、正門前を通る県道を国が買い取る計画が進行し、そうなると立ち入りが難しくなるそうです。また、九州電力の株主総会で一定数を保有している株主は議案提案できますが、提案時間の短縮・一括質疑応答・再質問禁止などで意見を聞く時間を減らそうとしているということでした。「老朽原発、カルデラ、活断層、実効性ある避難計画が立てられていないなどさまざまな問題を抱えながら稼働し続けている原発に対して今以上に反原発の行動をしなければ」と理事メンバーは決意を新たにします。

鹿児島県薩摩川内市久美﨑町にある川内原子力発電所。

さかうえの「里山牛」

 昨年から商品企画がスタートした鹿児島さかうえの「里山牛」。坂上社長は農家に生まれ、大学卒業後、24歳の時に帰郷し、ゴルフ場の芝生やピーマン、サツマイモなどの栽培を始めました。40歳で再び大学で農業経営を学び、「農の力」で社会問題を解決しようと考えます。バブルがはじけ、芝生が売れなくなるとセブンイレブンのおでんの大根を栽培。その後、農薬を減らす技術を身に着けたいと、1年半図書館に通い続け、全国各地の現場を見てさまざまな課題を解決していきました。息子さんが幼い時に畑の菜の花をおいしそうに食べる様子を見て「こんな幸せなことはない」と無農薬で栽培する喜びを感じたとのこと。2011年、「せっかくやるなら日本一に」を合言葉にピーマンの生産量が日本一になりました。キーワードは「微生物」「土」「命をいただいていること」。現在、里山牛150頭を飼育し、デントコーンを100haで栽培。自給飼料生産で地域の連携が拡がり、中山間地域の段々畑でも放牧牛地域にすることで耕作放棄地を管理しています。

 昨年6月、営業部を立ち上げ、社員は100人に。坂上社長の理念のもと全国から若者が就農、農業で社会貢献したいという人が多いとのこと。現在は黒毛和牛ですが、ホルスタインやF1種も考慮中、放牧豚や鶏、無農薬野菜にもチャレンジしたいということです。

畑の中でゆったり過ごす、さかうえの「里山の牛」たち。

コープ自然派兵庫・「水俣」研修報告 PART1を読む>>

Vol.475(2022年11月)より
一部修正・加筆

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