2021年2月13日(土)、コープ自然派京都ではフォトジャーナリスト・安田菜津紀さんを招いて講演会を開催、2011年3月11日をキーワードにコロナ後の社会について考えました。

安田菜津紀さんはNPO法人Dialogue for People副代表。東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を続 け、著書「写真で伝える仕事・世界の子 どもたちと向き合って」など。TBS「サ ンデーモーニング」コメンテーターとしても活躍。

生き方を決定した出会い

 フォトジャーナリストとは、写真を通して世界の状況を伝える人。安田さんがフォトジャーナリストを目ざしたきっかけは、高校2年生のとき「NPO法人国境なき子どもたち」が派遣する「友情のリポーター」としてカンボジアを訪ね、トラフィックトチルドレンと呼ばれる子どもたちと出会ったことでした。カンボジアでは内戦が続き、農村部に集中する貧困層の親たちに言葉巧みに近づき子どもを買うトラフィッカーがいました。売られた子どもたちは路上で物売りや物乞いなど過酷な労働を強いられ、女の子は性行為を強要されました。安田さんは保護され施設で暮らす子どもたちと出会い、彼女たちから受け取った言葉や経験を広く伝えようとフォトジャーナリストを目ざします。

苦難を強いられる人たち

 現在、何らかの要因で避難生活を送っている人たちは世界で延べ8000万人。100人に1人が避難生活を余儀なくされています。そして、2019年に日本で難民認定を受けたのは44人。1万人近くの人たちが難民申請して認定率0.4%です。トランプ政権は移民難民に差別的でしたが、それでも難民認定率は約30%でした。

 安田さんが出会ったジョセフ・ジュディーさんは2012年にシリアから日本に逃れてきました。2011年にはジュディーさんの故郷近くでも大規模な反政府デモが行われていましたが、当初、ジュディーさんは活動からは距離を置いていました。しかし、ある日、反政府デモに参加して政府軍に容赦なく撃たれた両親に泣きすがる子どもたちを見て、反政府デモに積極的に参加するようになりました。そして命を狙われ、日本に逃れてきました。ジュディーさんは在留資格を得ていますが、難民認定は得られないままです。さらに日本で生まれた娘さんは日本国籍が取得できず無国籍状態なので、さまざまな壁に突き当たる可能性があります。「新型コロナウイルス感染拡大で生活困窮者の相談を受けたり、食糧の配布会にお邪魔することがありますが、外国籍の方も多く訪れます。どういう人たちが職を失い追い込まれやすいかコロナ禍でさらに浮き彫りになりました」と安田さんは話します。

10年以上続くシリア内戦

 未だ収束しないシリア内戦。きっかけは2010年末から2011年にかけてアラブ諸国で広がった民主化を求める反政府運動でした。これは「アラブの春」と呼ばれ、その波はシリアにも届きました。2011年3月15日、シリア各地の都市で一斉デモが行われ治安部隊と衝突、この日がシリア内戦の始まった日とされています。

 それから10年、シリア国内外で避難生活を送っている人たちは延べ1100万人近いと言われ、人口の半数に及びます。シリア内戦は政府・反政府という二項対立だけでなく、いわゆる”イスラム国“のような過激派勢力も加わりました。

 安田さんが大学生の時にカンボジアとともに通い続けたシリア。当時は治安も安定し遺跡を見るために世界中から旅行者が集まる国でした。安田さんが足を運んだ国々の中でもっとも風景が美しく、もっとも優しくしてもらった国。安田さんが紹介する内戦前の首都・ダマスカスの夜景写真は宝石をちりばめたような美しさでした。

大人としての責任を問う

 安田さんはシリアでいつも滞在していた集落の子どもたちの写真を紹介。2019年に出会ったサラちゃんという8歳の女の子は、隣国イラクの病院で避難生活を送っています。自宅前の路上で兄2人と遊んでいたとき、砲弾が飛んできて13歳の兄は即死、下の兄は一命をとりとめましたが片目に重傷を負い、サラちゃんも右足がちぎれた状態で病院に搬送されて切断。左足も骨がつぶれて歩けるようになるかどうかはこれからの手術とリハビリ次第とのこと。当時の状況を教えてくれたのは母親でした。同じ病室に父親も避難していましたが、子どもたちの状況にショックを受けて声を失っていました。家族が避難準備をしていた矢先の悲劇、あと10分、いえ5分早く逃げる決断をしていたらこんなことにはならなかったと母親は悔やんでいました。「私たち何も悪いことしてないよね。だからこんなことやめてほしいっておっきい人たちに伝えて」とサラちゃん。「おっきい人」とは広くとらえると「大人」。世界のどこかでこんなことが起きることを許してしまった大人として何ができるか、安田さんは視点を日本に向けます。

陸前高田市の一本松

 
 1本松の写真が映し出されました。岩手県の沿岸部最南端にある陸前高田市。日本百景のひとつとされた「高田松原」は7万本の松が見事な景観をつくっていました。しかし、2011年3月11日、東日本大震災による津波で1本を残して流されました。当時、安田さんはフィリピンの山奥で静かな時間を過ごしていましたが、夫の両親が暮らしていたのが陸前高田市。情報が得られないなかで、フィリピン地元紙は陸前高田市を「壊滅」と報じていました。

 陸前高田市は人口約2万人、死者と行方不明者が約2000人。松原が津波に流されていく様子は県立高田病院に勤務する義父が撮影していました。津波は6mとの最終情報を得て4階建ての県立高田病院は対策本部を3階に設置。病院の半分が停電になり義父たちは手動で人工呼吸を行っていたところに、想定よりも遥かに高い津波が押し寄せ、患者をマットに乗せたまま人工呼吸を続けました。この日は救出できた100人の患者と屋上で震えながら一夜を過ごし、なぜそれ以外の人たちを救えなかったのか、なぜ対策本部を3階に設置したのか、義父は自分を責め続けたということです。

 義母の遺体が発見されたのは4月9日。気仙川という美しい川の瓦礫の下から見つかった遺体は2匹のダックスフンドの散歩紐をしっかり握っていました。

関心を寄せ、分かち合う

 安田さんはこの10年間、陸前高田市に通い続けています。その間に米崎小学校校庭に設置された仮設住宅でシリアについて話す機会がありました。すると「それは大変、私たちにもできることはある」と使わなくなった服などを集めてくれました。80歳を超えた女性は避難生活3回目。1回目は第二次大戦中の空襲。2回目は1980年のチリ地震での津波。そして今回。「避難生活は大変だけど私たちは国を追い出されたことはない。国を追い出されて寒さに震えているシリアの子たちはきっと辛い思いをしているにちがいない」と案じていました。

 衣服集めの中心になってくれた佐藤さん一家は未だ自宅を再建できない状態ですが、「自分たちは世界中から支援を受け日常生活を取り戻せた。恩返しではなく、恩送りをしたい」と。「2011年1年間で世界の中で支援が最も多く集まったのは日本。何かの支えを世界中から受け、その恩送りを連鎖させていくことが大切だと陸前高田市の方たちから教えられました」と安田さんは話します。

 「家族だったり友だちだったり、大好きな風景だったり、大切なものを失うという爪痕と向き合いながら子どもたちは日々成長しています。それはシリアでも同じことが言えるのではないでしょうか」と安田さんはシリアの子どもたちの写真を提示。マルアさんという16歳の少女は激戦区のアレッポから避難し女の子を出産、10年後に会ったときはすっかり成長していました。

 「自分たちのことを本当に苦しめたのは爆弾を落とした政府勢力でもなく、”イスラム国“のような過激派勢力でもなく、これだけのことが起きていても世界は自分たちに関心を寄せない、その感覚がじわじわと自分たちを追いつめていくんです」とシリアの人たちの想いを聞いた安田さん。「今日の私の話と写真で子どもたちの顔や様子が少しでも心に刻まれたなら、身近な方たちとぜひ分かち合ってください。そして、少しずつ輪を拡げていただければ本望です」と話しました。

Table Vol.439(2021年5月)より
一部修正