2022年2月25日(金)、コープ自然派京都は、コロナ禍で1年遅れた「菅野みずえさんのお話」(アジェンダ・プロジェクト発行)出版記念の会を開催、菅野みずえさんに福島原発事故直後の緊迫する状況や想いについて聴きました。
原発事故後に起きたこと
「菅野みずえさんのお話」出版記念の会は、アイリーン・美緒子・スミスさん(環境ジャーナリスト、グリーン・アクション代表)のインタビューですすめられました。菅野みずえさんは福島原発事故後、福島県浪江町から兵庫県三木市に避難、本書は原発事故によってどのようなことを体験したのか、アイリーンさんが丁寧に聞き取った貴重な記録です。
菅野さんは福島県浪江町津島に2008年7月から暮らしていました。翌年、大熊町にある包括支援センターで福祉士として就職。大熊町は福島第一原発の立地自治体で原発交付金の多くが福祉施設に使われていました。原発事故の2ヵ月前に東京電力の説明会が開催され、福島第一原発はいかなる災害にも耐えうると説明されたばかりでした。
地震が起きた時、菅野さんは職場にいました。突然の地震でカウンターに飾っていた花瓶が足元に飛んできたり、エアコンが落ち、パソコンも吹っ飛びました。17時15分頃、職場を出て車で自宅に帰ろうとしましたが、余震が続いていて落ちてくる岩をよけながら、また、ぶらさがっている電線に触れないように走りました。「まるでパニック映画のようでした。でもそんな中でも助けてくれる人もいました」と菅野さん。真っ暗闇のなか、地割れのため車1台しか通れない道を菅野さんはひたすら走りました。ようやく帰宅するとリフォームしたばかりの家は土壁にひびが入っていました。夜中になって「原発が危ない」というメールが切れ切れに入ってきます。
翌朝、町内でもっとも山側にある津島地区に避難するよう町が避難命令を発し、親戚の人たちもやってきて菅野さん宅には総勢27人集まりました。福島原発が爆発したことは知らされていないまま、「津島に逃げろ」とやってきたのです。
避難者は「腐ったミカン」
3月12日16時頃、菅野さん宅の前に1台の車が止まり、白い防護服を着た2人の男性が「なんでこんなところにいるんだ」「家の中に入れ」「頼む、とにかく逃げてくれ」と必死で言いました。「2人ともナウシカの映画に出てくるナウシカのマスクのようなものをつけていました。その時、とっさにここはやばいと思いました」と菅野さん。とにかく子どもたちを逃がさなければと必死でみんなに逃げるよう説得し、13日の朝にはみんないなくなりました。
12日の朝から14日の朝までに菅野さんが体感したのは、肌に突き刺さるような痛さでした。また、12日の昼間に野菜を洗っていると金気くさい味がしました。安物のスプーンをなめているような味です。そして、皮膚がぱりぱりになって笑うと唇がピリッと割け、そこから血がたらたら流れました。ひどい口内炎になり、それは4月中続きました。さらに腹痛はないのに下痢が続きました。アイリーンさんによると、スリーマイル島原発事故でも同じような証言があったということです。放射能には味も匂いもないとよく言われますが、菅野さんたちは確かに放射能の味やにおいを体感しています。
そして、15日の朝に2時間で浪江町は全町避難になりました。菅野さんは息子さんと避難の途中、郡山総合体育館でスクリーニングを受けました。3時間外に並び検査を受けると放射能測定器の針が振り切れました。振り切れたので数値は不明で記録は何もありません。
ようやく逃げた避難先では「あなたたちが逃げてくるから汚染が広がった」と友人に言われました。「私たちの体から出るものが、この町の汚泥となって沈殿するんだと言われたとき、『腐ったミカン』になったと思いました」と菅野さん。居場所がなく、その後、福島の避難所に戻って「腐ったミカン」同士の安心感を得たということです。
避難のつらさを伝えたい
愛犬の被ばく死はつらい体験でした。犬の松子は外でしか排泄せず、地面を裸足で歩き、辺りを嗅いでなめるので被ばくし血を吐き亡くなりました。菅野さん自身も2016年4月に甲状腺ガンの手術をしました。取り出したガンを検査したかったのですが、「体内にあるときは患者のものでも、取り出したガンは病院のもの」というロジックで検査はできなかったということです。
「原発立地の人たちには、こんなつらいことになるんだよということを、とにかく伝えていきたい。原発事故で避難するということは自分で選べない。自分の人生をつくる権利を奪われてしまうことだと。もっともわかってほしいのは放射性物質は、みんなに一様に降り注ぐんだっていうこと。原発賛成でも反対でも被ばくは関係ないということを伝えたい」と菅野さんは話します。
Table Vol.463(2022年5月)より
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