2019年3月23日(土)、エル・おおさかにて「みな、やっとの思いで坂をのぼるー水俣病患者相談のいま」出版記念トークイベントが開催されました。著者の永野三智さんは一般財団法人水俣病センター相思社の患者相談窓口を担当。永野さんを招いて、水俣病の歴史、現在も苦しむ水俣病患者たちについて話を聴きました。
水俣を離れて帰るまで
永野さんの出身地、水俣市袋の出月集落は胎児性水俣病患者の多発地域で、永野さんは患者さんたちにかわいがられて育ちました。永野さんは小学5年生の時(1994年)、地元を離れ初めて水俣病への差別や偏見に直面します。タイを家族旅行中、東京から来た成人男性とプールで遊んでいた時のこと、永野さんの出身地が水俣だとわかると、「伝染るんじゃないの」と言って彼らはプールから慌てて出ていきました。何が起きたか理解できなかった永野さんは、誰にも話せなかったということです。それから、中学校で他地域から通う生徒から「水俣病が伝染るから触るな」と言われ、タイでの出来事の意味を理解します。永野さんは自分たちの住むところは恥ずかしく汚らわしい所なのだと思い、患者さんたちを煩わしく感じるようになりました。やがて、高校生になった永野さんは水俣を離れ、鹿児島県出身と偽った生活を国内外で2007年まで続けます。
その後、書道教室の恩師・溝口秋生さんの裁判(溝口訴訟:亡母の水俣病認定訴訟で、2013年最高裁勝訴判決)の傍聴をきっかけに水俣に戻り、水俣病と関わる仕事に就こうと決意します。しかし、病院勤めする中で「水俣病患者の存在が街を暗くする」「裁判をやめて欲しい」「(被告である)チッソが潰れたら街の公共や運営が立ち行かなくなる」と話す同僚たちに、反論することができず苦しくなった永野さんは相思社へ移ります。
誰もが開放される場所
1974年、相思社は水俣病患者と家族の拠り所として設立されました。相思社の活動は「水俣病を伝える」「患者・地域との付き合い」「地域づくり」を3本柱に、実物資料を多数展示する「水俣病歴史考証館」の運営、機関紙「ごんずい」(永野さんの「患者相談雑感」を連載)の発行など、患者を支えながら水俣病を伝えています。相思社は水俣の美しい街と水俣湾が見渡せる小高い丘にあり、訪問者のプライバシーが守られる安心できる場所とのこと。水俣病は有機水銀が脳の神経細胞を壊すため、手足の感覚が鈍くなり、頭痛、耳鳴り、手足のつりなど見た目にわかりづらく、誰からも理解してもらえない苦しみを抱えています。
相談に訪れる人たちは認定申請の相談だけでなく、症状のつらさを聞いてほしい人、水俣病であることを隠している人、ニセ患者について話す人、差別やいじめについて話す人、差別していた人が認定を受けた話をする人などさまざま。永野さんが勤めていた病院の同僚が水俣病を発症して相談に来たこともありました。当初、永野さんは話を聞くのが辛くて怖いと感じていましたが、相思社に来て話すことで相談者が開放感を得ていることに気づきます。永野さん自身も溝口訴訟を傍聴した際、差別や偏見から開放された経験があり、そのことに気づいたということです。そして、安心して迷惑をかけ合える社会、助け合える社会の大切さを語りました。
食の尊さ、幸せな体験
福島第一原発事故後、水俣にも福島県から多くの人が避難しています。中には子どもを連れてすぐに逃げなかったことで自分を責める人、今も福島に残る家族を想って涙する人たちが相思社に訪れます。「現在、食べることのリスクが自己責任になっています。被ばくや食べものの危険性を個人が見極めなければならない状況に疑問を感じます。本来、食べることは尊いこと。患者さんたちはどなたも魚を恨みません。魚の話をする時は必ず顔をほころばせます。幸せな体験がその人の人生の基礎になり、食べることを今も楽しんでいるのです」と永野さんは話します。
また、事故後、東京の企業の内定を断り相思社で働く学生など、若手職員が増えています。現在、20歳代〜40歳代を中心にフレッシュなメンバーで運営する相思社。「若い人たちに意志の強さを感じ、未来に希望がもてます」と永野さんは話しました。
Table Vol.394(2019年6月)