あちこちで分断がおき、社会の雰囲気がピリピリとしているのを感じます。誰かを排除したり犠牲にするのではなく、ともに生きるためになにができるでしょう。全国のいろんな場で哲学対話を続ける永井玲衣さんに話を聞きました。

永井 玲衣 | Nagai Rei
人びとと、ききあい考えあう対話の場を各地でひらく。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)『さみしくてごめん』(大和書房)。第17 回「わたくし、つまりNobody 賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。
なぜ互いの声をきくことが苦手なんだろう
言葉は社会を映しだす
───対話の場を始めたのは、どのようなきっかけからなのでしょう。
永井 「私たちはなぜ他者の声をきくことがこんなにもできないのだろう」「なぜこんなに集うことが難しくなったんだろう」というのが、大きな問いでした。
対話というと、話の内容に着目されがちですが、私は〝ききあう場〟だと考えています。哲学対話は、日常の小さな〝問い〟を誰かと一緒に育てる時間です。「他の人の考えをきいていたら、なにか話したくなる」とか、「自分の話をきいてもらえるんだ」とか、たとえ黙ってその場にいただけでも「いろんなことを考えられたから、私なんてダメだと思わなくてもいいんだ」とか、そういう感触を得ていく時間なんです。
───永井さんは「社会のことちゃんと考えたいラジオ」というポッドキャストをされています。哲学者である永井さんが、毎週社会問題を発信されているのを意外に感じました。
永井 たしかに日本では、哲学者が社会や政治に直接的に関わるのはそこまで一般的ではないかもしれません。でも、歴史的、国際的にはめずらしいことではないんです。たとえば、私の好きなサルトルという哲学者は、大統領に提言したり、彼自身が政党をつくったり、とても行動的な人でした。他にもそういった哲学者はたくさんいます。そもそも、何かを考えるということは、その社会の中で考えていくわけですから、必ず社会のあり方に影響されます。
10年ほど前から〝対話の場〟をつくっているのですが、ここ数年、どんなテーマで話しても、「恐怖」や「不安」という言葉が出てきます。そこで出てくる言葉は、その社会を映しているんです。私たちが物事を考えることと社会のあり方は、決して切り離すことができない不可分なものなんです。
社会を覆う不安感
───対話の場で「不安」や「怖い」といった言葉が出てくる社会は危ういです。
永井 分断を煽る風潮が強まっていますね。分断することで〝外部〟をつくって、それに対して〝被害を受けている私たち〟と枠付けるような論法です。たとえば在日外国人を外部化し、排除を望むというような。
また、南京大虐殺はなかったことにするような歴史修正も、社会の歪みに関わっている気がします。中国の人たちが虐殺を証言し、旧日本軍の人たちも自身の加害の告白をして、痛みを伴いながらようやく上げた声がなかったことにされてしまう。あるいは、研究者たちが積み上げてきた重要な研究の成果も無視されてしまって、インパクトのあるショート動画などが、分かりやすさゆえに裏付けがなくても信じられてしまうような状況は、とても危ないと感じています。
───ヘイトスピーチや排除するような言葉も気になります。
永井 他者を受け入れられない、同じ意見の人でないと安心できない人が増えていると思います。対話の場でも、「外国人が怖い」「追い出してほしい」と話す人もいます。「どうしてですか」と尋ねると、「列に並んでいるときに中国人っぽい人に割り込まれたからです」と、ただそれだけのことが、その人には耐え難いほど苦痛なんです。そして、「だから中国人はみんな追い出すべきだ」というところにまでいってしまう。でも、他者の痛みに耳を澄ませるのは難しいんです。
実体のない他者不信
───苦しさの根っこに不安があるのでしょうか。
永井 その不安や怖さには、たぶん実体がないんだと思うんです。実体があれば分かりやすいのでしょうけれど、何か得体が知れなくて抽象的なんです。
たとえば、核廃絶の運動をしてる人たちと一緒に対話の場をつくると、「中国が怖いから核武装すべきだ」という意見が出ることがあります。そこで、「中国のなにが怖いのですか?」ときくと、「分からないけれど、なんだか怖い」と。なにが不安なのか分からないからより怖いという感覚です。それに対して「怖くないよ」と言いたい側も、その怖さの正体が分からないから噛み合わず、コミュニケーションがすれ違ってしまう。
───コミュニケーション力を高めようというのはよくいわれていますが。
永井 自分がいかに上手に話せるかとか、伝えて相手を動かすことは着目されています。SNS上でも、互いに論破しようというような。でも、どうやって耳を澄ませて相手の話をきちんときくかということは骨抜きになっている気がします。そこに大きな危機感を覚えます。

コロナ禍がもたらしたもの
隣の人が怖い存在になった
───どうしてこんなにも他者が怖くなってしまったのでしょう。
永井 ひとつには、コロナ禍の影響が明確にあると思います。他者が「恐ろしい存在」になってしまったんです。ウイルスが人を媒介に感染するというだけはでなく、もっと抽象的・思想的な面で、〝隣の人は私に病気を感染させる存在〟という認識をつくりました。そうして、不安のなかで排除できる外部をつくるという構造が強化されました。県外の人に石を投げたり、夜のお仕事をされている方を疑ったり。すでにコロナ禍の頃から、不安の矛先が外部化されたもの―そしてそれは多くの場合、弱い立場にある人たちです―に向かう兆しはあったわけです。社会不安の時に入り込むのはファシズムなわけで、歴史を考えると岐路に立っているといえますね。
───コロナ禍は、いつ始まっていつ終わったのかもはっきりしません。
永井 あれほど衝撃的で特殊な経験を誰もがして、たくさんの方が一人で亡くなっていったのに、私たちの集合知的な共通の体験になっていないんです。「対話しないでください」「集まらないでください」なんて、まるで戦時下の言葉ですよね。一度バラバラになってしまったものをつなぎ直すには、改めてコロナ禍に向き合って、みんなで何かをする体験や対話の価値を再構築しないといけないと思っています。
つながるための「問い」
正解はないのに間違いだけある
─── SNSでの炎上を日常的に目にしていると、不用意なことを言うと責め立てられるという不安を感じます。
永井 それはあると思います。ある学生に言われた忘れられない言葉があります。「社会に〝正解〟はないけれど、 〝間違い〟はありますよね」と。とても2020年代を表した言葉だと思いました。
彼らは、正解はない、自由だよと散々言われてきたんです。でも、声を上げると「それは違う」と批判されたり、傷つけられたりする。正解はないのに間違いだけがあるって苦しいだろうと思います。分からないというのは無防備で不安ですが、それを「問い」にして、誰かと一緒に考えていくことが大切なんです。日常の手のひらサイズのモヤモヤを口に出してみて、みんなで考えるんです。
人間が記号化する社会
───「問い」でつながるのですね。
永井 対話って、暴力ではない形で人が一緒にいるための方法だと思うんです。
ある企業で対話の場を開いたときに、終わってから参加した社員さんが、「部長って人間だったんだ」と言ったんです。その人は上司のことを、人間ではなく〝上司〟という記号として見ていたということですよね。政治でも、〝外国人〟という記号として見るようなことが起きています。「それはおかしいでしょ?」と、一人の人間としての尊厳を回復していくためにも、対話が必要だと私は思っています。
マジョリティ側の自動ドア
───そうした非人間化に抗うのが、対話の場であると。
永井 差別も許されていいはずがありません。文化心理学者の出口真紀子さんは、マジョリティ側の特権を自動ドアと表現されています。普段は当たり前に開くので意識することもありません。たとえば、住宅を借りる時でも、日本国籍があれば簡単に借りられますが、在日外国人にはハードルがあって、いちいちドアが閉じるわけです。でも、マジョリティ側にいると、そこにドアがあることにさえ気づけないんです。在日コリアンの知人が、「自分は選挙期間に、実は泣いている」と教えてくれたんです。すごく社会のことを考えている人で、投票を呼びかける活動も一緒にしていた人なのですが、「実は、すごく辛い」と。「自分はひっそり泣くんだ」と言うんです。そう言われて初めて気づく。選挙に行けなくて、夜ひっそりと泣いている人がいる。きかれていない声がたくさんある。
「ともに生きる」ために
二項対立を超えていく
───きくことで無意識の思い込みに気づけます。
永井 みんなどこかで、同じ・違う、わかる・わからない、正解・不正解のような単純な線を引いてしまいがちですが、そんな二項対立を超えていく時に、自由になれると思います。
哲学対話をすると、「こんなふうに自分の考えていることを最後まで聞いてもらったのは初めて」と涙を流す人もいます。対話の場は、一人の悩みをみんなの問いに育てて、一緒に時間を歩んでいる実感がありますね。そういう場は意識的につくらないとできません。生協の活動も、バラバラになった個をつなぐ意味でもますます大切になっていると思います。
ともに生きるための対話の場を
永井 私たちが考えたり対話したりするのは、おかしな社会を変える主体であるためでもあるし、小さな声をきくためでもあります。どうしたら“ともに生きる”ことを引き受け直すことができるのか。それぞれの不安や目の前の人に向き合うためにも、まずは、ききあい、考えあうこと。『戦争の反対語は平和ではなく対話です』と対話する社会の大切さを説く経済学者の暉峻淑子さんがおっしゃるように、バス停の数ぐらい対話の場があればいいのにと思っています。
Table Vol.520(2025年12月)

