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生産者訪問・商品学習会

競争から共助の社会へ ― みなまたの過去と現在―

2024年2月2日、コープ自然派兵庫(理事会)は永野隆文さん(エコネットみなまた)を招き、水俣病事件と向き合ってきたこれまでの道のりを聞きました。

エコネットみなまたの永野隆文さん。「水俣病の教訓に学ぶことで、今もなおひるまず闘っていけます。私たちは微力であるが無力ではありません」

水俣病との出会い

 1970年11月、永野さんが高校1年生の時「高校生水俣病の会」は水俣病患者2名を招いたシンポジウムを開催しました。患者の濱元二徳さんは「自分たちは病気になった。その原因がチッソであることがわかっても政府は補償してくれない。こんな体になった者たちが声をあげない限り、この国は助けてくれない。高校生の皆さん、私たちに力を貸してください」と訴えかけました。永野さんは、「なんて理不尽な国なのだろう」と、この社会のおかしさを感じたそうです。これが、永野さんの生き方に大きな影響を与えた濱元さんと水俣病事件との出会いでした。

水俣病の事件史

 1932年、チッソ水俣工場で塩化ビニルの原料、アセトアルデヒドの生産を開始し、百閒排水口からメチル水銀を含んだ排水を無処理で流し始めます。1950年代、ある漁村の猫が全滅したと新聞で報道、その後2人の女の子が発病しましたが、原因不明の奇病とされました。国にとって重要なビニール製品の原料を製造していたため、生産を止めないまま多くの被害を生み出したのです。戦争に負け、豊かな暮らしを求めて、いのちより経済を優先した結果です。1968年9月、やっと政府が水俣病を公害認定しました。被害者によるチッソとの自主交渉など、補償と認定を求める患者の闘いは現在進行形で続いています。

百閒排水口。ここからメチル水銀が流れ出した水俣病原点の地

差別と偏見を生きてきた被害者たち

 36年間無処理で排水を流し続けた結果、海辺では脳性麻痺の赤ちゃんが多数生まれました。1961年、上野エイ子さんは第一子である良子さんを出産しましたが、わずか2歳で亡くなりました。原因究明のために解剖に協力しますが、解剖室が調理場のように見え、「大きなまな板があり、そこに良子を寝かせるのです。横に出刃包丁があり、ここで切り刻まれると考えたら辛くてたまらなかった」と、エイ子さんは何十年経っても昨日のことのように語るそうです。上野良子さんの解剖で脳にメチル水銀が蓄積していることが分かり、胎盤は毒物を通さないとのそれまでの常識が覆されました。胎児性水俣病の確認は大変衝撃的な事実として世界に知られることとなりました。漁村出身の胎児性水俣病患者である坂本しのぶさんは水俣病を伝えていく役割があるといい、1972年、スウェーデンで開催された国連人間環境会議に出席し、自らの姿を見せることで世界へ水俣病の被害を発信しました。水俣病患者は原因が特定されるまでは伝染病とされ、世間に見捨てられてきました。水俣病事件は差別や偏見の歴史であり、当事者の傷は何年経っても癒えることはありません。

エコネットみなまたのあゆみ

 1986年、水俣病患者の働く場と環境保護を事業化したいという想いが共感を呼び、患者、被害者に寄り添うチッソ労働者、市民の出資でせっけん工場が誕生しました。一度破壊された環境は元には戻りません。自身の生活のありようが水俣病事件を引き起こした一つの原因だと知り、販売を通じて暮らしの見直しを提案してきました。また、差別等で引きさかれた人間関係の修復の難しさも学んだそうです。社会的生きづらさを抱えているあらゆる人がともに働く場所としてエコネットみなまたは存在し、2020年には就労支援型B型事業所を設立。永野さんは「ビニールは暮らしに欠かせないものだった一方、多くの方が亡くなったにも関わらず日本人の多くは無関心であり、チッソも国も助けてくれなかった。水俣病事件から学び、今起きている社会問題に正面から向き合う姿勢を持ち、関心を持ち続けてほしい」と言います。私たちは商品を通して応援することができます。関心を持ち、行動することで共通の想いを持つことができます。

柑橘畑「毒を食わされたものは、毒を食わすわけにはいかぬ」と、漁業者は陸へあがり無農薬無化学肥料の柑橘類を生産

Table Vol.501(2024年5月)

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