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くらしと社会

【特別対談】終わらせないのは、あなた(永野三智さん×坂本真有美さん)

水俣病事件と原発には多くの共通点があります。生協運動の根幹にも関わるこの2つの問題を、水俣病センター相思社の永野三智さんと、コープ自然派で長年脱原発運動を担ってきた坂本真有美さんが語り合いました。

(左)永野三智さん(一般社団法人水俣病センター相思社職員)、(右)坂本真有美さん(コープ自然派京都理事長を経て、2023年よりコープ自然派事業連合副理事長)

当事者ではないからこそ

───活動を始めたきっかけは?
坂本 私は2007年に友人たちと映画「六ケ所村ラプソディ」の自主上映会を開催したことをきっかけに、関西で地道に脱原発運動をしている方々と知り合い、ともに集会をつくりました。一人ひとりが自分の考えで関わり、中身のある言葉が語られている場にともにいられたことで、確信をもって歩むことを始めました。
永野 私は2008年に相思社に入りました。川本輝夫という相思社の元理事長は、1970〜80年代の水俣病患者運動のリーダー的存在です。彼や彼と一緒に自主交渉や裁判を闘った人たちに魅了された全国の若者がいます。彼らのうちの何人かに今話を聞くと、「おかしいことはおかしいと言っていいんだと患者さんたちが教えてくれた」と言います。水俣に生きている土の匂いのする普通の人たちが、虐げられたときにこんなにも権力に立ち向かっていくチカラを出せる。闘う人たちとともにいることで、社会を変えられる、そう思ったと言います。

───活動で大切にしているのはどんなことでしょうか
永野  アイリーン・美緒子・スミスさんは水俣病事件に関わり(写真集「MINAMATA」を夫ユージン・スミスと出版)、その後グリーン・アクションという団体を立ち上げて脱原発運動をしている方ですが、「当事者ではないことを大切にしたい」と言われています。
 長年一緒に運動していると、当事者の声を代弁できると勘違いしそうになるんです。でも、当事者の痛みも苦しみも本当には分かりません。けれど、私は患者さんの怒りとか悲しみだけではなくて、その人それぞれの暮らしの言葉にとても揺すぶられてきました。分かりたいという気持ち、闘っている人の言葉を聞く経験が大事だと思うんです。少しでも自分自身の言葉で伝えたいと思ってやっています。
 何かの形で残していかないと、なかったことにされてしまいますから。橋渡し役をするのが周縁者、つまり坂本さんや私の役割ですね。
坂本 同じ地域の中では話題にすることもままならないし、意見を言うことも難しいと聞きます。当事者ではないからこそ、言えること、できることも少なからずあると思います。
 また、アイリーンさんとは、私は脱原発運動を一緒に行っていて、やはりいつも助けていただきます。同じことを一斉にしなくても、それぞれの立場を活かしてできることをすればいいとの言葉に励まされ、生協における脱原発活動の仕方を探ってきました。

国に切り捨てられた

───福島と水俣は同じ構造の事件だといわれます。
永野 2011年の福島第一原発事故以降、水俣の話が打てば響くように伝わるようになったと感じています。はじめは
「こんなに分かってもらえるなんて」と嬉しくなってしまったくらい。でもすぐに「二度と繰り返さない」と誓ったことが繰り返されてしまったことが分かりました。
 水俣病事件は、1932年から68年まで、チッソという会社の工場がプラスチックの材料を作る工程でメチル水銀が排出し続けた無差別殺人・傷害事件です。患者の濱本二徳さんは「うったち(私たち)は米びつに毒ば盛られた」と表現します。「魚(イオ)湧く海」と言われるほど豊かな漁場だった水俣湾が汚染され、メチル水銀が濃縮された魚を食べたことで多くの人と動物が病気になりました。被害者の数は20万人とも47万人ともいわれ、10万人がなんらかの水俣病に関わる申請をしましたが、国が認めた認定患者は2300人のみ。6万5千人が和解をしています。いまも棄却された1700人が裁判を闘っていて、1000人が認定申請中で、差別や偏見を恐れて申請すらできない被害者もいます。

坂本 福島第一原発事故についても同じように感じます。
 福島第一原発事故は、2011年の東日本大震災によって1〜3号機がメルトダウンし、水素爆発を起こして大量の放
射性物質がまき散らされた事件です。国による被害の線引きもよく似ていると感じます。あまりにも犠牲を顧みないし、分断の問題も共通しています。
 誘致をめぐる賛成派と反対派、消費する都市部と生産時に伴う実被害を受ける地方、消費する現在の世代と核のゴミを残される未来の世代。そして被害を受けた人の間でも避難する人としない人、補償を受ける人と受けられない人、さらに、家族の分断も起きています。
 そして、歴史をたどるとどちらも戦争がからんでいます。原発は、戦争に使う爆弾のために開発された原子力を「平和利用する」として始まりました。

権力にからめとられない闘い方

───複雑にからむ問題に立ちすくみそうになりますが

永野 チッソ(現JNC)は、液晶や不織布を作っていて、私もパソコンやスマホを使うし、コロナ禍以降は不織布のマスクも使ってきました。そういう暮らしから逃れることはできません。でも、そうではない暮らしと二足のわらじを履いて、少しずつでもその比重を変えていくことが大切だと思います。「そうではない暮らし」の提案をしているのがコープ自然派であり、相思社です。相思社では、患者が身をもって体験した水銀の被害と農薬中毒とを重ねて「人や自然に対して加害者になりたくない」という思いから、無農薬や低農薬の柑橘栽培を行ったものの仲買をはじめ、今は被害地域支援としてその販売を続けています。そのような柑橘を届けることを通して水俣病を伝える。これが私たちなりの権力にからめとられない闘い方だと思っています。私たちは日常的に運動をしている。どこの誰のものを選ぶのか、買い物は、私たちの手で未来を作る小さくても確実な一助です。
坂本 分断させようという力が働いていることを認識することが大事だと思います。そして、手をつなぐことは難しくても、ともに未来を生きる者同士としてつながり続けていれば、声を大きくしていけると思います。
永野 相思社では1988年に「水俣病歴史考証館」をつくりました。「資料館」ではなく「考証館」という名前にしたのは、考えて証し続けないと終わったことになってしまうからです。水俣病事件を通して現代社会を考証していく場所なんです。2021年、福島に「原子力災害考証館」ができました。運営者は全く別ですが、同じ「考証館」という名前の施設ができたことに意味を感じます。全国に次々できてほしいです。水俣病を描いた作家の石牟礼道子さんは「魚(イオ)の骨になりなさい」と言いました。国が事件を飲み込もうとするときに喉にひっかかる魚の小骨のように、抗い続けることが大切なのだと思います。

終わらせないのは、あなた

───一歩でも半歩でも前に進むために大切なことは?

永野 熊本水俣病の闘争は、新潟水俣病の運動に背中を押されて始まった側面があります。皮肉な話ですが、新潟で水俣病が起きなければ、熊本水俣病が再び注目されることはなかった。そして水俣病はこれまでの運動の中で注目されてきましたが、他にも闘いを強いられている人たちがいます。例えばカネミ油症事件、土呂久ヒ素公害、森永ヒ素ミルク中毒事件、豊島、ハンセン病問題……。冒頭の川本輝夫の言葉を借りると、「水俣病患者だけが助かればいいわけではない」。大切なのは、共闘なのだと思います。
坂本 問題を知って驚いたり、運動の場で自分の言葉を持つ人の魅力に感動するなど心を動かされたとき、自然に自分ができること、なすべきことが見つかるんだと思います。
永野 なぜ運動が続いていくのかというと、闘う人がいるからというのはもちろんですが、注目し続ける人がいるからです。注目し続ける人の存在が、終わらせないためには重要なんです。終わらせないのは、あなたです。

Table Vol.500(2024年4月)



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