2023年11月16日〜17日、コープ自然派連合商品委員会アンバサダーin三重では、岐阜県しょうゆ協業組合、のだみそ株式会社、おとうふ工房いしかわ、赤須賀漁業協同組合を訪問しました。オンラインTableでは、2回に分けてその内容をお伝えします。(①の記事はこちら)
のだみそ株式会社
■お味噌は作るではなく、育てる
蔵に入ると味噌のよい香り。人の背丈の2倍ほどもあるずっしりとした木桶がずらり、重石が3トン積み上げられています。柔らかい灯りに照らされて木桶が静かに佇む空間は、まるで昭和初期にタイムスリップしたよう。代表取締役社長の野田清衛さんは「夜、コーヒーを持って蔵を散歩するのが社長として一番の贅沢で楽しみ」と言い、静寂の中で感じる音の心地よさを教えてくれました。
2023年6月から登場した「自然派Styleまめみそ(生)」は、愛知県豊田市桝塚にある創業100年を迎える「のだみそ株式会社」で製造。すべて木桶を使用して天然醸造で味噌を育てています。原料は愛知県産大豆と塩のみ。蒸すことで栄養を閉じ込めた大豆を潰し、こうじ菌を付けた豆麹(味噌玉)を作ります。3日間、室の中で発酵させることで、豆の味が凝縮した天然のプロテインができます。これを塩水に砕き入れ、木桶の中で馴らしながら仕込み、最後に重石をします。そこから1年半以上熟成。人間は手を添えるのみで、木桶や菌、四季が作る温度変化の中でぐんぐんおいしく育ちます。
■作為なくあるがままにつくられたもの
この蔵は戦時中、岡崎海軍航空隊の飛行場でした。大黒蔵は格納庫、恵比寿蔵は兵舎。「14、15歳くらいの子どもたちが、人の殺し方と、自分の死に方を学ぶための訓練をさせられていました。78年前の日本が子どもたちに強いていたことを理解する必要がある」と野田さん。子どもたちを二度と戦争に巻き込まない、同じ過ちを繰り返さない、そんな場所にするために味噌蔵に変えました。さらに、35年前から子どもたちに「食べるということは生きること」と伝え始めました。「この蔵では、同じ味噌は二度と出てこない。あるがままに作られる。それは子どもたちも同じで、心も頭もみんな違う個性がある。それが育つのを待っている」と、味噌と子どもを想い、平和な世の中を求め続ける蔵の物語は深く心に沁みました。
おとうふ工房いしかわ
■まめにひとすじ
まるで小さな座布団!豆腐の白い部分を残した肉厚で濃厚な味わいの「自然派Style肉厚油揚げ」。製造するのは愛知県高浜市にある、(株)おとうふ工房いしかわ。「自分の子どもに食べさせたい豆腐を作ろう」という想いで1991年に設立。「すべての人を幸せにしたい」を社是に、日本の農業を守るために国産大豆、にがり寄せ、消泡剤不使用などにこだわり、昔ながらの製法で食文化を継承しています。
■豆腐屋だから硬いことは言えない
石川社長はバブル崩壊時.両親の豆腐屋を継ぎました。2月3日節分生まれ、豆腐屋を継ぐ運命だと言います。幼少期には豆腐屋が軒を連ね、鍋や桶を持って豆腐を買いに行く時代。しかし、豆腐屋であることがコンプレックスで高校時代は後を継がなくていい方法を考えていたそう。同時にこの頃から忙しくなった両親の代わりに石川さんが晩ご飯を作っていました。「おいしい」と言ってくれるのがとてもうれしくて、豆腐作りの原点になっています。
■人生と豆腐
「日本一の豆腐屋になるぞ!豆腐メーカーになるぞ!」と、卒業後、企業に就職して修行。27歳のときに結婚して故郷に帰り商売をはじめましたが、時代とともに豆腐屋は衰退。営業に行っても「豆腐屋は辞めた方がいい、これからは装置産業だ」と言われ大きな投資をして原料の質を下げてでも価格を抑えるなど、ただただ白くて四角い豆腐だけを求めていました。しかし、友人家族を通して自然食品店の社長と出会い、作る側ではなく誰かのための豆腐を作るために日々研究。1年頑張って完成したのが国産大豆を使った豆腐でした。店舗で既存の豆腐とともに扱い始めると、常連さんがリピートしてくれるようになりました。人が認めてくれるということは、その人の人生をも変え、家族、地域、そして地球のことを考えることにつながりました。これをきっかけに国産大豆を使った豆腐のみに変更し、生協と出会いました。バブルが崩壊しモノに対する考え方が変わる時代に、子どもに食べさせたい豆腐を作りたいと現在まで変わらぬ思いで豆腐作りを行っています。
■豆腐と戦争
戦時中、豆腐の歴史が変わりました。ゼロ戦の製造ににがり成分を使うため、豆腐への使用が禁止に。代替え品は「すまし粉(硫酸カルシウム・石膏)」。味はいまひとつですが当時の粗悪な大豆で誰でも豆腐を作ることができました。敗戦後も食糧難のため配給の輸入大豆とすまし粉で豆腐作りが続きましたが、飽食の時代へ変化。石川さんは「だからこそ食べものに感謝し、平和を祈らなければなりません」と。大豆の種は3粒まき、鳥、土、最後に自分のためにまきます。食べ物に感謝して「いただきます」。
赤須賀漁業協同組合
赤須賀は三重県北部桑名市に位置する名古屋市に近い漁村です。岐阜や長野の山から木曽三川に流れ込む豊かな栄養と、伊勢湾の恵みを受けた豊かな漁場。水揚げ量一位はヤマトシジミ、汽水域で採れる唯一のシジミです。ポスティでは「三重県産冷凍シジミ」で登場。砂地で育つため貝は黄金色で、身はふっくらして独特な匂いがなくとってもおいしい!と赤須賀の漁師大絶賛。この地域での採貝の歴史は460年。現在シジミ・ハマグリ漁は通年、冬季はシラウオ漁や黒のり養殖を行っています。赤須賀漁協は未来の子どもたちに水産資源と漁師という職業を継承していくために出漁日は週3日にとどめ、漁獲サイズ・量も決めて水産資源を守り続けています。
■ハマグリとシジミの資源管理
1965年頃までは「桑名のハマグリ」として知られるほどだった漁獲量が1975年頃から減少。戦後の高度成長期に行われた埋め立てや、名古屋港の防波堤建設、地盤沈下などの影響で多くの干潟を失いハマグリの水揚げが減少しました。危機感をもった当時の組合長はじめ水谷さんたちは後世にハマグリを残したいと熱意をもって行政に掛け合い、試行錯誤を繰り返して安定した種苗生産を可能にしました。平成6年に人工干潟を再生し貝の住処を確保。小学生と一緒に「大きくなったらまた会おうね」と声かけしながらを種苗を放流し続け、「桑名のハマグリ」は復活の兆しが見えています。シジミも乱獲や長良川河口堰の建設など様々な環境変化で減少。河口堰建設反対運動をしていた水谷組合長は、補償金により住民が分断された過去を悔やみ「今は前を向いて若い組合員の生活を考えたい。めし喰う以上の魚や貝はとるな、資源を大事にしないと自分で自分の首を絞めることになる」と言います。
■山・川・海はひとつ
山が変わると海も変わり、良い漁場は山の栄養のおかげ。赤須賀漁協はその絆づくりに毎年取り組んでいます。夏になると海(桑名市)と山(岐阜県東白川村)の子どもたちを赤須賀に招待して干潟観察を行い、秋には木曽川上流、春には三重県内の山間部で植樹活動を行います。組合長は「海や川だけでなく、山にも手ぇ合わせ」という、漁師が代々受け継いできた言葉を伝えます。
また、地域の小学校から漁協に社会見学に訪れたり、出前授業や学校給食にシジミを提供するなど、未来の漁師たちとの時間も大切にしています。赤須賀漁協は若い漁師が多いのが特徴。29歳から87歳までの現役漁師が100人ほど在籍し、水産資源を守る意義を理解して自分たちの採ってきたものが日本一美味しいと自信を持って日々情熱を注いでいます。
アンバサダーを終えて
正橋委員長は「実際に見て直接お話を聞いてわかることが今回もたくさんあり、商品を通じて作り手の想いを伝え、つないでいきたい。食べる人を増やし、組合員と生産者の想いを形にできるような商品開発にチャレンジしていきたい」と締めくくりました。
Table Vol.497(2024年1月)より
一部修正・加筆