リニューアル第1号の巻頭インタビューは、多くの生産者・組合員・役職員の要望に応えて藤原辰史さんが登場。大国の戦争に自ら巻き込まれようとするこの国の不穏な動きとは異なる道筋を示すために、藤原さんは食と農の仕組みを変えようと提案しました。
藤原 辰史| FUJIHARA Tatsushi 1976年北海道旭川市生まれ、島根県横田町(現奥出雲町)出身。1995年島根県立横田高校卒業。1999年京都大学総合人間学部卒業。 2002年京都大学人間・環境学研究科中退、同年、京都大学人文科学研究所助手(2002.11-2009.5)、東京大学農学生命科学研究科講師(2009.6-2013.3)を経て、現在、京都大学人文科学研究所准教授。博士(人間・環境学)。
戦争と食の深いつながり
───この国が戦争へのステップを踏んでいくことにブレーキをかけられるでしょうか。
藤原 残念ながら、世界の歴史を紐解くと、戦争がなかった時代はほとんどありません。人類史は悪い意味で戦争と密接不可分です。戦争がある種の起爆剤となって新たなアイデアが生まれることもありました。核兵器はその最たるもので、効率的に人を殺したいという欲望を満たすものです。戦争は新しい技術を開発し、多額のお金が動きます。信じられない数のミサイルや兵器が使われます。そして、「戦争が儲かる」という他言できない暗い欲望が戦争をより活性化させます。
一方で、人間を戦争から解放するという願いもまた、私たちは抱き続けてきました。今、その願いを叶えるのは絶望的と言ってもいいほど困難な状況です。いきなりすべてを変えることは無理だと思いますが、既存の仕組みを崩し、戦争を煽る人たちの歯車のスピードを少し遅くすることはできるのではないでしょうか。
そのひとつとして、一見遠回りのように見えますが、化学肥料や農薬を使わない農業は、少なくともその殺戮の歯車とは異なる動きを示してくれます。なぜなら20世紀に誕生した農業技術システムと20世紀に誕生した大規模殺戮システムは同じ技術によって成り立っているからです。トラクターは戦車に、毒ガスの平和利用が農薬です。第一次世界大戦をターニングポイントに大規模殺戮・大規模農業システムがつくられました。
───飢えが戦争を引き起こしてきた歴史があります。
藤原 食が満たされると人から何かを奪おうとしたり、暴力を振るおうとしたりすることは抑制されます。飢えと渇きがあるところに必ず戦争の種がまかれます。ですから食が満たされることは一つの安全保障です。安全保障と言えば武力によるものと考えがちですが、武器は民衆を守るというより国を守るものです。2015年、「安保法制」が強行採決される前後によく議論しましたが、集団的自衛権が発動されたら自衛隊はおそらくまず東京の政府や皇居を守ることを庶民の小さな家を守ることより優先するでしょう。そういう意味で「国家安全保障」ですね。でも、私たちの安全をほんとうに保障するのは衣・食・住です。これを「人間安全保障」という人もいますが、衣・食・住が満たされたら武器を持って闘うことは少なくなります。
食の問題の根源にあるもの
───食料の多くを輸入に頼っている日本は食料自給率向上が課題ですね。
藤原 目指すべきは国産自給というより地域自給です。自分たちの食を身近で満たすことになれば安心の度合いはぐんと高まります。想像もつかないような地域から運ばれたものを食べているより顔の見える人たちの作った作物で食事を用意するのは「人間安全保障」の一種だと思います。カネの切れ目は縁の切れ目です。今のように多くの食料を輸入に頼っている日本の状況はけっして安全ではありません。
───一方で食におけるアンフェアな関係も存在します。
藤原 食には常に権力的な問題が存在します。第一に、たくさん持っている人が持っていない人の上位に立つ。さらに食に携わる行為は肉体労働になるので、働かずして食べられるという特権階級が存在します。耕す人と耕さない人に分かれた瞬間、耕さない側の人が上、耕す人が下という権力関係が発生します。かつてヨーロッパ世界やアラブ世界では家事も農業も奴隷が担っていました。今、農業の自動化が進められていますが、それは昔から支配層の変わらない欲望です。食をめぐる労働は常に身分の低い人が担わされていたのです。また、食は独占すればするほど強い権力を握れます。ウクライナとロシアから食料が輸出されなくなると、世界市場を支配する人たちが利潤を得ました。「砂時計のくびれ」とは、「くびれ」の上が膨大な生産者、下が膨大な消費者、上下をつなぐ「くびれ」は世界で10に満たない企業が握っている状態を表現した言葉です。食の偏在は権力を強化し、人々を苦しめています。食を通じて誰かが誰かの足元を見てお金をふんだくることのない社会になると戦争はぐんと減ります。
既存の仕組みを見直す
───生活を便利に営みたいという欲望が今では行き過ぎているのではないかと感じられます。
藤原 この世界はもっともっと欲しいと私たちの欲望が駆り立てられるような仕組みになっています。「計画的陳腐化」と「心理的陳腐化」という言葉がありますが、計画的陳腐化とは、例えばスマートフォンは5年経つと性能が落ちるようにつくられています。わざと性能を劣化させるプログラムを組みこんでいるのです。フランスの消費者運動がアイフォンを訴えましたが、私たちを飽きさせ、買わせるスピードを上げるのです。心理的陳腐とは、モデルチェンジされると自分の所有物が陳腐に思えるという心理です。こうやって世の中の回転を速くすることで経済が成り立っているのが今の社会です。これらによって大量廃棄社会が成り立っています。
───そんな動きを変えるために、食や農の視点から社会を見直そうというのですね。
藤原 化石燃料を材料とする化学肥料と農薬を大量に使う在り方を改め、微生物に力を最大限発揮してもらうという有機農業の仕組みは社会の流れをも変化させる力を持っています。土の力がよみがえるのを待ち、発酵する時間を待ち、人と人の関係ができるのを待ち、化学肥料ではなく有機肥料が土壌に効くのを待つ。毎日の食事はゆるやかな薬を食べ続けるというように有機農法や自然農法は時間の流れを遅くします。資本主義のスピードを遅くすれば大規模殺戮・大規模農業システムを劣化できるのではないでしょうか。
───日本が戦争に向かおうとしている今こそ大切なポイントですね。
藤原 アメリカの軍需品を大量に購入し、敵基地攻撃能力を認めるなど、政府はわざわざ自分がアメリカの紛争の渦に巻き込まれやすくしています。アメリカと中国が戦争すれば日本は巻き込まれ、まず南西諸島が盾にされます。そして、第二次世界大戦のように沖縄を盾にすることを繰り返そうとしています。
───さらに、政府は軍事費の増強を打ち出してしています。
藤原 今、必要なのは軍備ではなく、中村哲さんのような考え方です。中村哲さんはアフガニスタンで井戸を掘り、水路をつくりました。壊れた取水口は、中村さん亡き後も、彼に薫陶を受けた地元の人たちがつくり直しています。今の日本は中村さんの思考過程の真逆をすすんでいます。アフガニスタンでは食べものが少なくて奪い合い、働く場所もない、それで武器をもって攻撃する。中村さんは「テロリスト」に襲われたとき、周りの人たちに「武器を取るな」と命令し、話し合いで解決しました。
彼は一番安全なのは日の丸だと車に張り付けつけました。なぜなら日本国憲法で戦争を永久に放棄し、軍隊を持たないことを宣言しているからです。そんな国だからアメリカの言いなりにならないだろうという安心感を抱かせるために日の丸を車の目立つところに貼りました。彼にとって日の丸は安全保障でした。さらに、日本が中東各地で評価されるのは原爆を2度投下され、20世紀最大の殺戮が行われた国だから自分たちの苦境をわかってくれるだろうという想いがあるからです。しかし、軍国化へ舵を切った今は「日の丸」はもう安全保障にはならないでしょう。
医師である中村さんは病院をつくりましたが、病気にならない社会をつくるためには水が必要だと砂漠を森に変えました。こういう人がいることが安全保障だと思います。そして、私たちが国内で戦争への動きに反対していることも安全保障と言えます。
「食べる場所」の再設定
───食べることは社会と密接に関係し、食を通じて人とつながっています。
藤原 食べる行為はいつも他人との関係性をつくる能力を発揮します。人と食べる喜びがあり、一人で食べても何かに囲まれて食べていることが緊急事態にその人を救うことになります。「子ども食堂」でいつも一人で食べていたとしても料理している人はその存在に気づいています。それだけでも縁があり、「今日はあの子来てないよね」などと確認できます。これまで食べる場所は、家庭が中心でしたが、家庭の外で食べる場所を設定することが高速の食料生産・消費・廃棄に対抗する拠点になるのではないでしょうか。私はそれを「縁食」と呼んでいます。
───今、子どもたちにとって希望のない社会になっていますね。
藤原 子どもにとって家庭は受験戦争の前哨地となっています。あるいはDVなど家庭が安全な場ではなくなっています。家庭が安全な場所でなければせめて外でごはんを食べる時間があることは貴重です。ここだけは信じられるという場所が必要です。お腹が減ったらイライラするし、食べていない子がいれば助けたくなるという感覚は信じられます。世界中で大人が起こした飢えや紛争で小さな子どもたちが死んでいます。日本では7人に1人が貧困の状況です。子どものお腹と心が同時に満たされる場所が求められています。
───若い人たちの政治参加が少なくなっていることも大きな課題です。
藤原 公共のために私たちが行動したり言葉を交わしたりする時間は本来1日のうち2〜3時間は必要ですが、今は1分
に満たないのではないでしょうか。ではそれ以外の時間には頭の中は何に占拠されているのでしょうか。60年を超えた原発を稼働させることの不合理性は小学生で習ったことだけでも十分説明できますが、支配層の大人たちは議論しようとしません。敵基地攻撃能力が何を意味するかなど公共のための時間を2〜3時間使えば激論になるはずですが、その時間がなぜ少なくなったのか。それ以外のことで忙しくなったからですが、では何に心を奪われているのか。今、貧しい学生はアルバイト。だからと言ってリッチな学生は本を読んでいるとは思えません。本屋で本を買わないので隣の本を見ないし、新聞を読まないので隣の記事を読まないし、わからないことはネット検索します。つまり不都合な真実を見ないのです。
それでも、私は学生への期待を失ったことは一度もありません。食と農の歴史講義で、あるとき「関心あることを挙げてほしい、それをもとに講義するから」と提案したところ、もっとも多かったのがフードロス問題でした。彼らはコンビニやパン屋のアルバイトで食べものをガンガン捨てていることで心を痛めています。そこから考えていけばいいのです。学生たちにどんどん発表してもらい、そこから漏れてくる政治や社会問題は2割でもいい、その2割が大切だと思っています。政治や社会を変えるには「美」が必要です。哲学のジャンルで「美」とは「背中がゾクゾクすること」。生協活動でもゾクゾクする体験を大切にしていただきたいです。(取材・文 高橋もと子)
Table Vol.491(2023年7月)