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くらしと社会

~私にできることを考えてみよう~

2018年8月31日(金)、コープ自然派京都(ビジョン未来と平和主催)は「Peace café 〜私にできることを考えてみよう〜」を開催、広島で被ばくした花垣ルミさんにお話をうかがいました。

100人以上の人たちの名前やメッセージが書かれた白いブラウスを着て自身の体験を話す花垣ルミさん。

おばあちゃんの人形

紙芝居「おばあちゃんの人形」を朗読する児島理事。「何もかも殺してしまう戦争が憎い」との最後のシーンで思わず涙が…。

 Peace café は紙芝居「おばあちゃんの人形」から始まりました。佛教大学の学生たちが2008年から2009年にかけて制作したもので、孫の立場から花垣さんの体験が描かれ、アメリカの国連本部をはじめ10ヵ国以上に届けられているということです。

 花垣さんは大阪で生まれ、銀行員の父親の東京本店勤務により東京へ転居。その後、戦況が厳しくなり、5歳の時に広島の叔母のもとに疎開しました。花垣さんは「たえちゃん」という人形をとても大切にしていて、「たえちゃん」と遊んでいた時、原爆が投下されました。「その瞬間は地面が持ち上がった感じ」で、花垣さんは箪笥と窓枠の間に挟まれ、母親が助けてくれました。

 それから母親に連れられて逃げますが、辺りは火の海、犬や猫、馬たちも黒焦げになって死んでいました。焼けただれた手をぶらぶらさせて歩いている人、水・水…とうめいている人などのなかを母親とともに逃げているとき、つまずいて「たえちゃん」を落としてしまいました。「たえちゃん」に火がつき、拾おうとしましたが、母親に強く引っ張られて泣きながら火のない方に逃げました。辺りには息ができないほどの強烈な臭いが立ち込め、手足のない人やゴムボートのように身体が膨らんだ人、黒焦げの人たちが山のように積まれて燃やされていました。そんな光景に目を離せずにいると「見ちゃダメ」と母親が目隠ししました。

 最初、大田川沿いの竹藪に避難しましたが、そこには養鶏場があり、鶏たちが悲惨な状態で死んでいました。そのうち1羽の鶏が足をつつくのを母親が棒きれで追っ払ったシーンだけが記憶に残っていますが、なぜか母親には当時の心情を聞けないままでした。小学校1年生のいとこは原爆投下2日目に川のそばで死んでいるのを叔母が見つけました。

核廃絶を願う活動に参加

 1945年8月6日に広島、3日後には長崎に原爆が投下され、多くの命が失われました。8月15日、ようやく日本は降伏して戦争は終わりました。その後、被ばくした人たちは傷が治りにくかったり、貧血だったり、がんになったり、体が弱かったり、さまざまな苦しみを抱えてきました。花垣さんも幼少期は身体が弱く、母親から貸本屋への出入りや縁日などの買い食いは固く禁じられていました。また、京都に引っ越してからは毎朝、ドクターチェックを受けて
通学する日々でした。

 花垣さんは原爆投下後のあまりにも悲惨な光景に遭遇し、その後しばらくの日々の記憶を失っていました。記憶を取り戻したのは58年後のことで、2003年から広島平和公園を毎年訪れています。そして、花垣さんは平和公園に行く人たちにいつも言います。地面にしゃがんで「こんにちは」と言ってみてね、と。なぜなら、平和公園の土の下にはたくさんの人たちが眠っているからです。現在、花垣さんは核兵器禁止運動などに積極的に参加。「国民の多数は戦争反対、核廃絶を願っていると思います。国連で核兵器禁止条約が採択されましたが、日本政府は参加せず、反対の態度です。許せませんね」と花垣さんは話します。

司会の森垣理事は被爆者国際署名を広げる京都の会の活動で花垣さんと知り合いました。

Table Vol.377(2018年10月)

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