私たちの身の回りにはさまざまな化学物質があふれ、その中には脳や身体の発達に影響を及ぼすおそれがあるものも少なくありません。「有害化学物質から子どもを守るネットワーク(子どもケミネット)」を立ち上げた中下裕子さんに、日本の課題やこれからのアクションについて聞きました。
中下裕子 | NAKASHITA Yuko 弁護士、NPO 法人ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議(JEPA)代表理事、有害化学物質から子どもを守るネットワーク(子どもケミネット)代表世話人
今、なぜ「子どもケミネット」なのか?
子どもたちに起きていること
中下 いま子どもたちに大変なことが起きています。2022年12月13日に公表された文部科学省の調査によると、普通学級の児童のうち学習・行動面で著しい困難を示す児童は8.8%(男子12.1%、女子5.4%)で、10年前の6.5%から増加しています。また、特別支援教育を受けている児童・生徒のうち注意欠陥多動性障害(ADHD)は統計を開始した2006年の20.7倍、学習障害は22.7倍と激増しています。
また、不妊も増えていて、不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は4.4組に1組。精子数の減少や卵子が傷つくなどの機能の低下は世界的な傾向です。欧米諸国では1973年〜2011年の間に精子濃度が52.8%も減っています。不妊症は先進国のことと思われがちですが、アフリカ諸国では精子濃度が73%も減少。先進国で使用禁止になった危険な農薬が途上国支援の名目で送られることもあり汚染が広がっています。先進国の責任は重いです。
少子化と化学物質
中下 国は少子化問題の原因をライフスタイルだとしていますが、生物学的に子どもがつくれない人が増えているのではないかと懸念しています。ヒトの遺伝子が短期間に変化するとは考えにくいので、少子化の要因は環境要因、特にこの数十年に開発された化学物質の影響が考えられます。私たちの身の回りには医薬品、食品、プラスチック、洗剤、化粧品、殺虫剤、農薬類に至るまで便利な化学物質があふれていて、その中には人や生態系に悪影響を及ぼすものが数多くあります。
「新しい毒性」シグナル毒性
中下 特に懸念されるのが、現在の化学物質規制では対象になっていない「シグナル毒性物質」です。従来型の毒性では、遺伝子や細胞に直接的に作用して障害を起こしますが、シグナル毒性は、体内の情報伝達が化学物質によってかく乱され、間違った信号が送られることによって起こります。
シグナル毒性の典型は内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)です。内分泌(ホルモン)系は複雑で、成長、発達、代謝、免疫、生殖など人間が生きていく上でのさまざまな機能の調節に関わっています。環境ホルモンは生体のホルモンの受容体に結合し、誤った情報を出して本来のホルモンの働きをかく乱します。同様のかく乱は、神経伝達物質にも起こり、受容体に結合して誤った情報を送ることにより、脳や神経の働きに異常が生じると考えられます。そして、従来の毒性は量が多くなると悪影響が出ますが、シグナル毒性の場合は量は必ずしも重要ではなく、ごく微量(従来の毒性では安全基準以下の量)でも発現し、高齢期や次世代になって影響を及ぼすこともあります。
子どもは小さな大人ではない
胎児、子どもの脆弱性
中下 子どもは小さな体ですが、体重あたりの飲食物の摂取量は大人の3~5倍も多く、皮膚の面積は体重あたり2.5倍。よく口に手や物を入れますし、化学物質濃度の高い地面や床の近くで遊ぶため化学物質にばく露しやすいのです。また子どもは、有害化学物質からの防御機構(例えば、血液脳関門、解毒、排出機構)が未発達のため、化学物質の影響を受けやすく、水銀や鉛などの重金属類や、ダイオキシン類、ネオニコチノイド系農薬などの化学物質は胎盤を透過してしまうことがわかっています。
このため、子どもは、環境汚染物質をためやすく、アメリカのセントローレンス川下流のPCB(ポリ塩化ビフェニル)汚染調査結果では、母乳を飲んでいた乳児は母親の尿PCB濃度より10倍高く体内にため込んでいることが報告されています。
発達期と大人での影響の違い
中下 ホルモンの働きは発達期と成人とでは全く違います。大人はホルモンをかく乱されても一時的なもので恒常性を保つことができますが、胎児や小さな子どもでは、ホルモンは、1個の受精卵からさまざまな器官が形成されるプログラムを調整する役割を担っています。このため、この時期のホルモンのかく乱によっては、プログラムの異常を起こしてしまいます。特に、それが臨界期に起きると、後の発達に不可逆的影響を及ぼすことになってしまいます。
シグナル毒性にどう対処する?
環境ホルモンの影響
中下 20数年前、ダイオキシンなどの環境ホルモン問題が大きな社会問題になりました。日本では環境ホルモンは空騒ぎであるという論文が新聞に投稿され、環境省でも野生動物への影響はあるが人の健康影響は明らかではないとして環境ホルモンリストを廃止してしまいました。しかし、世界では研究が続けられ、2012年、WHOは、「野生生物や実験動物で認められた影響はヒトでも発現する可能性がある。特に懸念されるのは初期発達への影響である」と報告しています。
子どもケミネットの立ち上げ
中下 子どもたちは自ら汚染から逃れることはできません。このままでは取り返しのつかないことになる、なんとかしなくてはと、2023年4月、コープ自然派をはじめ様々な生協、NPO、個人が研究者とともに「子どもケミネット」を立ち上げました。広いネットワークで内外の研究の最前線を学びながら、予防原則に基づいた規制を求める市民の声を高めて、子どもたちを守る規制の実施を立法、行政に働きかけていきたいと思っています。
農薬による子どもへの影響は
中下 農薬もシグナル毒性物質です。日本の3歳児223名の尿検査でネオニコチノイド系農薬が検出された割合は80%、有機リン系とピレスロイド系の農薬は100%検出されました。アメリカの論文によると、ADHDのリスクは有機リン系農薬のばく露によって2倍高くなります。
このような論文を受け、米国小児科学会は2012年、「農薬ばく露は子どものがんのリスクを上げ、発達障害などの脳の発達に悪影響を及ぼす」として、子どもの身の回りの農薬ばく露を減らすよう警告しました。国際産婦人科連合は「農薬、大気汚染、内分泌かく乱化学物質などの有害な環境化学物質のばく露が、流産、死産、胎児の発達異常、がん、自閉症等の発達障害を増加させている」との意見を公表し、2019年にはグリホサートの使用は世界規模で禁止すべきという勧告を出しています。
日本はOECD1〜2位の農薬大国。避けようがないと暗い気持ちになりますが、朗報もあります。有機野菜を30日間食べると、尿中のネオニコチノイド系農薬の濃度が劇的に減少することがわかっています。私が有機野菜にこだわり続ける理由はここにもあります。
ネオニコチノイド農薬の廃止は?
中下 農水省もみどりの食料システム戦略でネオニコチノイド系農薬を減らす方針を出しました。コープ自然派の取り組みによって日本でもネオニコチノイド系農薬が排除できることを示したことも大きかったのではないでしょうか。しかし、ネオニコチノイド系農薬の登録が抹消された訳ではありません。現在すすめられている農薬再評価では、公表文献を利益相反のある農薬企業が選定・評価しています。子どもケミネットではその是正を求める意見書を提出しました。今後も再評価の行方を注視し、声を上げ続ける必要があります。
国際プラスチック条約に有害化学物質規制を盛り込もう!
プラスチックとシグナル毒性
中下 プラスチックには、難燃剤や、PFAS(有機フッ素化合物)、フタル酸エステル、ビスフェノールAなどのシグナル毒性物質が使われています。
フタル酸エステルはプラスチック製品の可塑剤として大量に使われていますが、女性ホルモン作用のある内分泌かく乱物質でポリ塩化ビニル(PVC)などの柔らかいビニール製品のほか、消しゴムや化粧品など幅広く用いられています。EUでは1999年、予防原則に基づいて口に入れるおもちゃへの6種類のフタル酸エステルを規制し、その後、おもちゃやレジャー用品、スポーツ機器、電気・電子機器への使用を規制しています。日本でも子どもが口にいれるおもちゃへの6種のフタル酸エステルが使用禁止になりましたが、電気・電子機器やレジャー用品等への規制は導入されていません。
ビスフェノールA(BPA)も低用量で生殖器官や脳神経系、免疫系に悪影響を及ぼすとされています。PC(ポリカーボネート)と表示されている容器も表面に傷が付くとBPAが溶け出す恐れがあります。輸入缶詰の内面塗装や、レシート、ATM利用票、光熱費の検針票等の印字面に使われていますので、むやみに触らない方がよいと思います。
国際プラスチック条約とは?
中下 海洋プラスチックによる汚染が政治的な課題となり、2022年3月には、国連環境総会でプラスチックのライフサイクル全体を規制する条約を策定することが決定されました。条約の具体的内容は5回の政府間交渉会議(NC)において議論されることになっており、2024年4月にカナダでINC4、11月に韓国で最終のINC5を迎えます。プラスチック汚染をなくすための非常に重要なステップです。
INCでの議論の状況は?
中下 プラスチックは原料の採取から生産・使用・販売・流通・廃棄・リサイクルなどライフサイクルの各段階で化学物質を放出します。その中には、シグナル毒性物質を含む有害化学物質が含まれています。プラスチックは私たちの暮らしに浸透し、すべてを否定することはできませんが、使明らかです。できる限り削減するとともに、使用される有害化学物質を規制・禁止し、安全なリユース・リサイクルを実施することは喫緊の課題です。
現在、INCにおける、懸念のある(有害)化学物質・問題のあるプラスチック製品の規制を盛り込む議論に関しては、支持する国が比較的多いものの意見の隔たりも大きく、最終案に残るかどうか予断を許さない状況です。日本政府はプラスチック全体の総量規制には消極的で、有害化学物質規制にも必ずしも積極的ではありません。
私たちにできることは?
中下 環境省が2018年~2022年に行ったモニタリング調査では、ほぼすべての人からフタル酸エステル、ビスフェノールA、PFASが検出され、マイクロプラスチックは血液から見つかっていますが、日本のプラスチック循環促進法には有害化学物質への規制は含まれていません。
国際条約で決まれば日本政府も規制をせざるを得なくなります。国際プラスチック条約に有害化学物質の生産・使用・販売・流通・輸出入の禁止・廃絶措置を期限付きでとることを義務づける条項を盛り込むよう、日本政府に働きかけましょう。そして、国内法に有害化学物質規制の導入を要望する活動をすすめていきましょう。
循環経済を軸とする社会は、有害化学物質に対する規制ぬきには実現できません。最大の被害者は声をあげられない野生生物、そして未来世代を含む子どもたちです。私たちは「主権者」です!いまこそ大きな声をあげ、行動すべき時です。
Table Vol.501(2024年5月)